阿部正弘講演 Q&A 糸永直美アナとの対談公演より
阿部正弘講演 Q&A 糸永直美アナとの対談公演より
阿部正弘を語る前の時代背景(捕鯨の意味)
今日は「本格ミステリー作家島田荘司が語る歴史、ミステリー」と題して島田荘司様にお話を伺いたいと思います。私たち二人は誠之館出身です。誠之館創設者である阿部正弘は、総理大臣の立場で、日米和親条約締結をしたことで、教科書にも出てきます。
ただ、その評価はさまざまです。
島田さんは、次回の作品で安部正弘を題材に書く予定だと伺っております。なぜ阿部正弘は開国という決断をしたのか。
日米和親条約を突っぱねていたらどうなっていたのか。
たいへん興味深いところです。まずは突然、黒船がやって来る様子を思い浮かべると当時の日本人はみんな、びっくりしたでしょうね。
● そもそも、黒船の、日本側への要求というのは何だったのですか?貿易しましょうということですか?
この時のペリーの要求は三つです。交易は含まれません。
ひとつはアメリカの難破船の救助です。当時のアメリカは世界一の捕鯨大国で、大西洋の鯨を捕り尽くしてしまい、いなくなってしまったので、太平洋に鯨を捕りにきていたんです。そして日本の近海は、鯨の良好な漁場だったのですね。
だからアメリカの捕鯨船は、日本の近海で嵐に遭って、難破して漂流することがたまにありました。ところが命からがら日本に漂着しても、日本人は異国人を鬼として畏れていて、助けるどころか石を投げたり、棒で打って殺してしまうと噂されていたわけです。
今後はそういう野蛮なことはやめて、難破したアメリカの漁船員はきちんと救助して、看病してやって欲しいという要求です。まあこれは当然ですね。
それから二番目は、水、食料、燃料の石炭、薪の補給ですね。
三つ目は、長崎以外に、そういう捕鯨船、補給基地となる港を、日本に開いて欲しいということです。
当時鯨を捕ると、全体を細かく刻んで、肉片をすべてロープに吊るして、その下で薪を焚いて炎で肉をあぶって、油をぽたぽた滲み出させて甲板で採集したんです。
しかしこの薪を大量に捕鯨船に積んで漁場まで来るのは、スペース的に無駄です。日本で薪の補給ができれば、船内を乗組員のためにもっと有効に活用できます。
● 当時のアメリカは、何のために捕鯨をしていたのでしょうか。
油を取るためだけです。アメリカ人は、鯨の肉はいっさい食べませんでした。油をしぼり取ったら、肉はすべて、骨と一緒に海に捨てていたんです。
当時は、まだ石油が発見されていないんです。だからランプの灯りの灯油も、誠之館の資料館に遺されている天球儀の回転部分に注す潤滑油も、すべて鯨から取った鯨油だったんです。
だから捕鯨という産業は、今日の感覚で言うと石油産業だったわけですね。日本の近海は、油田地帯だったんです。鯨は泳ぐ油田、海中から石油を掘り出していたようなものです。当時はまだ、鯨以外の場所に、オイルを発見できていなかったんです。
アメリカ人は鮭を獲っても、最近までイクラはすべて捨てていました。日本人が食べると知って、捨てなくなったそうですが、それと似ていますね。
ただペリーの日本来航の頃には、泳ぐ油田の時代は、実はゆるやかに終わりはじめていたんです。
● 何故でしょうか。
石油が発見されたからですね。石油由来のオイルの方がはるかに安価で、大海に船出して、命を賭けて鯨と格闘する仕事が、割に合わなくなってきたからです。それで捕鯨産業はあっという間に滅んでしまいます。
● しかし日本は、植民地化と、開戦を予想しておびえたわけですね? 捕鯨船の燃料や薪、補給基地の提供というアメリカの要求であったのに、何故日本はそう考えたのでしょう。
それはこの時代、世界中が白人の植民地と化していたからです。この時点で中国はまだ香港をイギリスに獲られただけでしたが、まもなくロシア、イギリス、フランスに、順次領土を獲られていく運命にありました。
アジア、アフリカ、南北アメリカ大陸、それからオーストラリア、ニュージーランド、インドネシアもフィリピンも、すべて白人の植民地になっていました。当時植民地化をまぬがれていた大きな国は、実はエチオピア、タイ、日本の三ヶ国だけだったんです。
エチオピアは、手強い風土病のおかげで、白人が手を出せませんでした。タイは、左右から侵攻してきたイギリスとフランスがタイでぶつかって、にらみ合って、たまたまその力の狭間に落ち込んでいたからです。手を出せば英仏戦争になるので。
だから、真に自分の力で独立できていた有色人種の国は、日本だけともいえます。警戒するのは当然です。こういう国際情勢は、すべてオランダを通じて幕府の耳に入っていました。鎖国政策も、無理からぬところがあったんです。
そしていざ開戦すれば、火器の破壊力の差は歴然でした。アメリカの大砲、アームストロング砲の弾丸などは、日本の大砲の四倍の距離を飛び、砲弾自体が破裂します。日本の砲弾は、ただの鉄の球です。この状態での開戦は無謀で、闘えば日本も同じ運命だったでしょう。
阿部正弘が老中首座だったころ
人柄&「誠之館」というキーワードを含めたエピソード
● 阿部正弘が老中首座だった頃の黒船の時代、江戸幕府へのプレッシャーは、相当なものだったわけですね。
その通りですね。世界情勢は、阿部正弘のもとにはおおよそすべて入っていました。『日本遠征記』には、日本人がパナマ運河の計画まで知っていたと、驚いて書かれています。アヘン戦争の顛末も、これは近所のことだから正確に情報が入っていました。
阿部たちとしては、植民地化を回避することと、アヘンを国内に入れられることは、絶対に避けなくてはならないという、固い決意がありました。これを強要されるなら、命を捨てて戦争をするほかない、という悲壮な覚悟を固めていたわけです。
しかし港をいくつか開くだけで、交易をしないならば開国したことにはならない、と幕府は考えたふしがあります。開国しなければ、アヘンも、キリスト教も、危険な人物も武器も、国に入ってはきません。だから日米和親条約締結のこの時点では、幕府はまだ開国したつもりはありませんでした。
正式に開国して多くの港を開いて、貿易まで始めたら、鎖国開始の直前に実際にあったのですが、ポルトガル人宣教師に煽動されたキリスト教徒によって、政府転覆の謀反を計画される危険もある、そうなったら、国産の武器が遅れている今、そういうすべてを防ぎきるのは大変だ、と幕府は考えていたわけです。
それからもう一点、述べておくべき重大な問題があります。これも歴史家があまり言わない盲点ですが、鎖国しているつもりは日本人ばかりで、アメリカの船はしょっちゅう日本近海を航行していて、島国日本を詳細に観察していました。そしてその気になれば、いくらでも江戸湾に入れました。なにしろ日本の大砲の弾は届かないのですから。
江戸は当時百万都市で、これは人口世界一の大都会です。この都市の住民は、食料をほぼすべて海上輸送に頼っていました。今みたいにトラックとか、鉄道がありませんから。
そうなら、軍船二~三隻で江戸湾の封鎖は可能だと、アメリカ軍は見ていました。日本の食料運搬船を一隻も江戸湾に入れなければ、江戸市民は十日で干上がる、餓死者が出はじめると読んでいました。
つまりアメリカは、実のところ砲門を開かなくても、江戸幕府を降伏させられる自信を持っていたわけです。
● 黒船の来航時、両国の間では喜劇的ともいえるエピソードが多く残っているそうですが・・・
異文化との初の接近遭遇ですから、喜劇的な要素は実はたくさんあります。後世のわれわれが理解しているようなものとは、実態はかなり違っています。アメリカ式のユーモラスな場面はあります。
二度目の来航をして、日米和親条約の調印が決まったのちですが、贈り物を日本側に手渡して、ペリーは遅れて合流したポーハタン号の船上に幕臣たちを招いて、一大祝賀パーティを催すんですね。アメと鞭のアメの方です。接待外交ですね。
この宴には牛肉、羊肉、野菜、果物、パン、バター、さまざまなデザートに、シャンパン、マディラ酒、パンチなど、艦に積まれたあらゆる自慢の酒や、コックが腕を振るったさまざまな料理が出されるんです。日本人の舌に、これらは大いにあったらしくて、侍たちは大変に喜んだらしい。この時からは、もうペリー提督も参加しています。
ペリーは一メートル九十五もあるような巨漢で、しかも大声でしゃべるので、日本人はかなりの威圧感を感じたようです。
格別マラスキーノ酒という酒を、侍たち気に入って、みな大いに飲んで盛り上がったらしい。条約締結時の交渉役を果たした林大学の頭だけが最後まで素面で、冷静だったらしいですが。
それから、白人の水兵が顔を黒く塗って黒人音楽を奏でて踊るというショーを見て、水兵がおどけるので、日本の侍たちも爆笑していたと言います。このときはさすがのむっつりした交渉全権、林大学の頭も、笑いの渦に加わっていたということです。
それからペリーは、デザートのケーキを用意して、これをカットして各藩士に配る際に、おのおのの藩の家紋を逐一調べ上げていて、これを描いた小さな旗を用意して、ケーキにそれぞれ立てて配った。これに侍たちは大感激したようです。
食事を終えると、侍たちは懐から万能使用の和紙を出してきて、これに食べ残した食事を包みはじめるんです。侍たちはこの和紙を、手紙を書くのに使ったり、汗や汚れをぬぐうのに使ったり、鼻をかんだり、あらゆることに用いていました。食事のあとは、食べ残しを包んで家人のお土産に持って帰るのだけれど、肉も野菜もデザートも、一緒くたにくるんで袖に入れるので、ペリーはそれを見て、自分ならあれを食べるのはごめんだと、『遠征記』に書いています。
侍たちにとっては、出された料理を持ち帰るのは当時の武家社会の礼儀なので、アメリカ人たちにもしきりに持ち帰りを進めて、みなに閉口されたようです。
あるいは食事の席にバターが出されて、日本人はバターを見たことがないので、鬢付け油かと勘違いして髪に塗る侍もいて、アメリカ人はこれを見て仰天したようですね。
またシャンパンやマラスキーノ酒は舌にあったけれど、ウィスキーやブランデーは飲めなくて、砂糖を入れて飲む者がいたようです。
パーティがお開きになって、侍たちは下船という運びになり、そうしたら松崎満太郎という侍が泥酔して、アメリカ人たちとこんなにも懇意になれたことに大感激して、ふらふらペリーのところにやってきて、「アメリカと日本、心は一つです」と日本語で言って、ペリーに抱きついてきた、ということをペリーは書いています。
きつく抱きついて、ペリーのまだ新しい軍服の肩の飾りをつぶすので、ペリーは閉口したらしい。
しかも松崎満太郎は、感激のあまり涙ぐんでしまい、酔っぱらいの特徴で、泣きながら同じことを何度も何度も繰り返すので、かなりまいったようです。
● アメリカ側は、さまざまな贈り物を用意してきたんでしたね。どんなものがあったのでしょうか。
これはさすがにレディーファーストのお国柄なので、ご婦人にもプレゼントをたくさん用意してきたようですね。男性の高官たちのことばかりを考えてはいなかった。
この時の徳川の将軍は家定で、奥方は高名な篤姫です。アメリカは篤姫に、当時日本人はまだ誰も見たことがなかったであろう、全身が映る大型の姿見、つまり鏡を用意してきています。
老中首座、今で言うと総理大臣ですが、阿部正弘の奥方には、石鹸や香水を送ったようです。正弘自身には、最新型のコルト・リヴォルヴァー、連射可能のピストルを、プレゼントしました。
阿部正弘に対しては、そればかりではないですね。この誠之館の資料館には、天球儀とか、メキシコとの戦争を描いたピクチャーカードなどが保存されていたと思います。横浜の開港資料館にもない貴重なこれらも、この時のアメリカからの贈り物と思われます。
ペリーは日本人のために「彼理(ペルリ)」と漢字で書いた名刺も作ってきていたようです。これも、福山の記念館に遺っていたらよかったのですが。
そして極め付けは、蒸気機関車の四分の一模型と、モールス信号器です。機関車の方は、横浜村の接待所の前の砂浜にレールを敷いて、実際に走らせました。
阿部正弘VSペリー 核心に迫るエピソード
● 解りました。ではそろそろペリー提督と、阿部正弘の人となりについて、うかがいたいと思います。まずペリーとは、どんな人物だったのでしょう。
マシュー・ガルブレイス・ペリーは、一七九四年四月十日、ロードアイランド州ニューポートに、海軍大佐の三男に生まれています。海軍エリート軍人の一家で、兄たちに続いて十四歳で海軍士官候補生、その後は海軍の主要ポストを進んで、一八三七年に、初の蒸気軍艦フルトン号の艦長となり、蒸気軍艦の父と呼ばれることになります。
米英戦争、続いてメキシコとの戦争に参加、ミシシッピ号の艦長兼副司令として、メキシコ湾上陸作戦を指揮しています。このミシシッピ号というのは、のちの日本訪問で、ノーフォークから上海までペリーが乗ってきた船です。
ペリーは日本遠征に以前から強い関心を持っていて、フィルモア大統領と、グレアム海軍長官の信任を得て、五十八歳で東インド艦隊司令長官に就任します。これは異例で、通常ならもう地上勤務に移っている歳です。江戸湾を訪れた際、彼は五十九歳でした。当時の感覚では高齢で、最後の大仕事、という意識であったと思われます。
彼は植物のコレクターという趣味も持っていて、長い鎖国をして、雑種交配が少ないであろう日本の植物に、新種発見の期待も抱いていたようです。開国当時のアメリカの国土には、実は案外植物が少なかったんです。これは西海岸など、今でもそうですね。ペリーの日本遠征には、魅力のある新種の植物探し、という目的もあったんです。
彼は、日本を開国させることに以前から強い情熱を燃やしていて、「最も古い国の扉を開いて世界の仲間入りをさせる役割は、最も若い国の代表たる自分が担う」と書いています。
彼はグログ酒と呼ばれる強い蒸留酒を愛飲していて、この強い酒がどうやらアルコール使用障害に発展して、晩年の彼を苦しめることになったようです。
彼は夕食がすむといったん床について眠り、午前一時頃に目を覚まして、愛用のパイプをくゆらせながら、航海日誌や、手記の口述を始める、という習慣を持っていたようです。彼の筆記者は、ちょっと大変だったかもしれません。
ペリー提督は、身長一メートル九十五の堂々たる巨漢で、怒ればドスのきいた声で周囲に悪態をつき、部下にも常に大声で命令を発したので、水兵たちは雷親父と恐れていたらしいです。鬘を用いていた、という証言もあります。
ただ痛風とリュウマチの持病があり、終始関節痛に悩まされていたようで、日本を開国させる大役を果たすと、急速に体調不良を訴えて、母国に帰還を求めています。
許されて帰国し、一八五六年に『日本遠征記』を出版し、今日の日本円で数億円という高額の報酬を受け取ってから、一八五八年三月四日にニューヨークであっけなく没しています。
こじらせた風邪がもとだったということで、体力も落ちていたと思われます。享年六十三、「日米和親条約」締結からわずかに四年後です。日本開国に、生命力を使い果たしたという人生ですね。
● ほう、そういう人ですか。
対した日本の老中首座、阿部正弘ですが、彼とペリーとは、実は多くの共通項があります。格別死亡の時期は不思議です。ほぼ同時期に死んでいるんですね。
それからもうひとつ、阿部正弘にも持病があって、ペリーとの開国交渉の時期は、阿部もまた、強い体調不良に悩まされていました。
阿部の病名は、昔のことですから正確なところは不明ですが、小太りだった体が、晩年急激に瘦せ細ったことなどから見て、腎臓か肝臓に癌があったのだろう、と推察されています。
そして彼もまた、「日米和親条約」締結という大仕事をなし終えてから、急激な体調悪化で自宅静養に入り、一八五七年六月十七日、グレゴリオ暦では八月六日に江戸で死亡しています。
「日米和親条約締結」の三年後で、ペリーより七ヶ月早い死ですが、ほぼ同時期で、大変興味深い暗合です。
ペリーと阿部正弘、ともに日本の開国という大仕事のために生まれてきた二人、という感じがしますね。
● 二人は、年齢も近かったのですか?
年齢はかなり違います。開国交渉時、ペリーは五十九歳、対する阿部は若干三十五歳です。
しかし、阿部もまたエリートの家系です。生まれついてのエリート政治家ですが、武士ですから軍人でもあります。マシュー・ペリーとよく似た境遇です。
第五代福山藩主、阿部正精(まさきよ)の六男として、一八一九年十二月三日に江戸西の丸屋敷で生まれました。西の丸屋敷というのは老中官邸、今で言えば首相官邸で、現在の二重橋前広場のあたりにありました。
正精は、次々に子供を亡くしていて、無事に育ったのは、三男の正寧(まさやす)と、六男の正弘だけでした。福山藩主阿部家は、初代正次、二代重次、六代正右(まさすけ)、七代正倫(まさとも)、八代正精、と老中を五名出している譜代、名門の家系です。六代正右は曾祖父、七代正倫は祖父、八代正精は父です。母は高野具美子(くみこ)、正精の正妻ではなく、側室でした。
文政九年、一八二四年に正精が老中職を辞して、正弘は母具美子と神田小川町の屋敷に移り、この家で成長します。そして一八二六年に正精が没して、長男の正寧(まさやす)が家督を継ぐと、正弘は本郷西片の中屋敷に移ることになります。
中屋敷というのは、その下の下屋敷もそうですが、上屋敷の控えの屋敷です。本郷の中屋敷は別名、丸山屋敷ともいい、この屋敷の由緒を引いて、現在の文京区立誠之小学校とか、阿部公園(西片公園)など、往事の名前が残されています。
明治時代までは、中屋敷跡の一帯は、丸山福山町と呼ばれていました。阿部の福山藩にちなんだ地名です。丸山屋敷のあった高台の崖下、西片一の一七の一七あたりに、明治時代の女流の文豪、樋口一葉が住んでいます。彼女は没するまでの二年半を、ここで暮らしました。阿部のお屋敷から流れて来る湧き水で、住まいのそばに池ができていて、一葉はこの池にちなんで自分の日記を「水の上」と命名しています。
しかし正寧(まさやす)は病弱であったために、十年後の一八三六年に正弘に家督を譲って隠居します。正弘はこれで正式に福山藩主となります。しかし正弘は、この時まだわずかに十八歳です。
しかし不思議なもので、病弱だった正寧(まさやす)は、明治の世、六十二歳まで生き延びます。代わって激動の日本の舵取りをになわされた正弘は、激務ゆえに三十九歳で死去します。
ともあれ阿部正弘は、第七代福山藩主として一八三六年に、生涯ただ一度のお国入りとして、福山に戻ってきています。二ヶ月ほど滞在したようです。
その翌年には奏者番、これは江戸城中における武家の礼式を管理する役職ですが、これに就き、その翌々年には寺社奉行見習い、継いで寺社奉行に就任、これは寺社の領地、建物、僧侶、神官の管理を担当する武家の役職です。
天保十四年、一八四三年には正弘は、二十五歳の若さで老中になり、登城の便のため、現在の千代田区大手町、辰の口の上屋敷に移ります。ここは生誕地、老中官邸の西の丸屋敷とはまた別の阿部家のお屋敷で、和田倉門そばのお堀端で、現在の東京銀行協会ビルとか丸ビルがあるあたり、地下鉄、都営三田線の大手町駅の付近になります。
そうしたら翌年、江戸城本丸焼失という大事件が起り、この処理に追われます。ただちの再建は財政的にむずかしいので、本丸に代わり得るものとして西の丸を考え、造営を指揮します。
一八四五年には、二十七歳の若さで老中首座に就任します。エリート政治家らしいとんとん拍子の出世ですが、彼のほかに有能な人材が城内に見当たらなかったこともあります。西の丸造営の功績で、阿部家には一万石が加増されますが、正弘はこの一万石を、のちに新設する藩校「誠之館」建設にすべて注ぎ込みます。
しかし幕末のこの時期は、中国のアヘン戦争の災禍、たび重なる異国船の日本来訪など、内外の情勢が風雲急を告げている激動期で、新老中首座は、その対応に日夜追われ続けることになります。国内にも、難問が山積していました。
首座就任の年、アメリカの捕鯨船マンハッタン号が江戸湾に入ってきます。これは漂流民を届けてくれるだけの平和裏のものだったので、特に問題は起きていません。
続いてオランダが開国勧告を言ってきます。この勧告はこの年のものがすでに二度目でした。しかし祖法遵守の空気が幕閣内に根強く、これは現状維持に逃げる事なかれ発想でもあったのですが、到底勧告を入れられるような空気は、城内になかったわけです。祖法を破れば不敬罪、切腹ものの重罪という認識でした。
そして翌年、一八四六年には、アメリカ東インド艦隊、ジェームス・ビドル艦長のコロンバス号とヴィンセンス号が通称を求めて浦賀に来航しますが、鎖国維持を理由に、正弘はこれも拒絶します。
しかしそれから七年の年が過ぎた嘉永六年、一八五三年、欧亜の端境では南下政策のロシアと、対する英・仏・トルコのクリミア戦争が起り、欧州列強は蠕動を続けて、ついにアメリカの蒸気船四隻が浦賀に現れて、開国を求める段階に入ります。
そして来年返事を聞きに戻ると言いおいて、ペリーは江戸湾を出て行きますが、実はその直後には、ロシアのプチャーチンも、通称を求めて長崎に現れています。日本はいよいよ、もう待ったがきかない緊急事態に陥ったわけです。開国か、さもなくば戦争です。
この直後から、病身を押した阿部正弘の八面六臂の活躍が始まるわけです。世界を相手にできる有能な人材育成のために、備後福山藩の藩校「弘道館」を「誠之館」とあらため、従来の世襲常識を廃した、実力主義の教育を開始します。
これは当時としてはとてつもない非常識で、乱心にも匹敵する異常発想でした。家老の子が家老になれなければ、父の忠誠心の離反にもつながると家臣は命がけの猛反対をしますが、正弘は敢然として押し切ります。したたかな世界の列強を相手にするには、生ぬるい世襲だの身分制だの言ってはいられない、突出した能力が要りますので。
この一点を見ても、阿部正弘がひょうたん鯰の事なかれ主義者、臆病者という評価はまるで当たっていません。むしろ今日の視線からは、事なかれの現状維持主義者の言いそうな猛反対を片端から蹴散らして、敢然と改革を為し続けたと、そういうことに見えます。世襲身分制を否定などという改革発想ができた侍は、封建時代の当時、阿部が一人だけです。ひょうたん鯰というのは、城内でそう見せかけた、正弘一流の演技であったと思われます。
「誠之館」という藩校名は、孔子の儒教の書、『中庸』に出てくる、「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」という一節から採ったものです。
誠之館は文京西片の阿部家中屋敷邸内にまず「丸山誠之館」を開校、継いで国もとの福山に、「福山誠之館」を開校します。福山誠之館は現在の誠之館高校、丸山誠之館は、現在の文京区立誠之小学校に、その名が引き継がれています。
そして幕府独裁発想は捨てて、京都の朝廷はじめ、外様大名を含む諸大名に鎖国・開国の意見を募ります。むろん幕府弱腰の非難が戻ることは、百も承知の上でした。
大船の禁を解いて、オランダから蒸気船の購入を決定、そして操船術を学ばせるため、即刻榎本武揚ら、身分は低いが有能な人材を抜擢して、オランダに留学に出します。船だけ買っても、操れる日本人がいなくては意味がありませんから。
阿部の期待通り、榎本は操船術だけでなく、当時の国際法、「万国公法」を自在に操れる国内唯一の国際人となって帰国します。
親友であり、有能でもあった薩摩藩主の島津斉彬に、開国やむなしの情勢を説明して、協力を要請します。阿部の動きを見て斉彬は、領地内で大船の建造に取りかかります。
大船の建造解禁を、阿部は続いて各藩にも伝達します。これも江戸城内の幕閣は、まず幕府が造ってのち、各藩に許すべきだ、さもないと幕府の威信が保てないと猛反対します。しかし当時の幕府に、実はその力はなかったんです。そして敵は国の外です。各藩協力して外敵にあたるべき時なので、これも正弘は常識を封じて、敢然と断行します。
江戸湾内に埋め立て工事を開始し、大砲を据えて、お台場にします。このお台場は、当初の計画のすべてが完成したわけではないし、和親条約の締結で、使用されることはなかったわけですから、さして意味がなかったように後世言われがちですが、実はここに砲を配置することで、江戸湾奥にまで侵入した船は、十字砲火の対象になるのですね。充分に有効な工事でした。
ペリーたちはさすがに戦のプロなので、最初の来航の時は江戸湾奥まで入っていますが、新設されたお台場を見て、二回目にはもう湾の奥までは入っていません。
それから砲術研究家の高島秋帆の罪を許してそばに呼び、上申に熱心に耳を傾けます。そして正弘は、のちに彼の上申の通りに洋式砲術を取り入れて、国防力を向上させます。
アメリカから帰国していたジョン万次郎に使いを飛ばして土佐から呼び寄せ、本所に江川屋敷を与えて、幕臣に取り立てます。これも身分制の崩壊につながるという猛反対が、周囲に起ります。しかし正弘は意に介しませんでした。
万次郎は、アメリカの学校で成績優秀であったため、自分はどのようなむずかしい英語でも理解ができますと訴えたので、条約締結の際には、彼を通訳として使うことを正弘は決めていました。
しかしこれには水戸の老公、徳川斉昭が、その者はアメリカのスパイに相違ないと猛反対したために、果たしませんでした。ために開港交渉は、英語、オランダ語、日本語と何重にも通訳を介する迂遠なかたちになりました。
けれども万次郎は、実は涙ながらに訴え出ており、容れられて襖の陰にひそみ、サブ通訳の役割をひそかに果たしたといわれています。アメリカ側も、陰に潜んでいるこの英語の達人の存在に、実は気づいていたといいます。
「踏み絵」を廃して信教の自由を打ち出し、「洋学所」を設置、「講武所」、「長崎海軍伝習所」の創設を進めます。洋学所はのちの東大、講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍に発展して、すべて国防の中核となります。洋学所の教授にはジョン万次郎、海軍伝習所長には、禄高の低い勝海舟を抜擢してあたらせました。
そして高島秋帆の進言通りの洋式砲術に加え、大船の導入による海防の充実をはかり、早急な幕政改革、安政の改革を進めます。
これらすべてが、のちの明治日本の礎になった有効で的確な指示ばかりです。これら実のある改革内容に較べれば、明治維新政府ははて何をしたのだろうと、悩むようなところがあります。
実は正弘がのちの日本を作った要素は、まだまだあるんです。
まず国旗「日の丸」です。これは島津の藩主、島津斉彬が正弘に提案して来るんです。海軍や大船群を作るならば、日本船の総印となる旗が必要だ。これを白地に赤丸の「日の丸」にしようというわけです。
古くは源平の一戦のおりに、那須与一が射抜く的が、扇に描かれた赤い丸になっていたという古事があります。これは丸に十の字の薩摩の紋章からの連想だったですのが、幕閣たちはこれにも難色を示すんです。しかし正弘が採用を決めます。
ただ彼は、阿部家の紋章、「違い鷹の羽」ですが、予備の旗があって、これが白地に黒丸だったのですね。自藩の紋を総印に用いたと、やっかみの難癖をつけられそうで躊躇したのですが、これは問題は起きませんでした。
それからのちの明治日本のスローガンになる「和魂洋才」という言葉、これも正弘が作っています。これはある人物が、「洋学所」の前身、「蕃書調所(ばんしょしらべしょ)」の額に、「和魂漢才」と書いて欲しいと正弘の筆を要請して来るんです。いきなり洋学所とはうたえなかったんですね。西洋の学問は長く禁止だったのですから、まずは無難に、「蕃書調所」と呼んだんです。
しかし本来「洋学所」とすべき場所の額に、その文字はふさわしくないと正弘が言って、「洋才」に修正するんです。これは当時の人々には刺激が強すぎて、すぐには採用されませんでしたが、文明開化の世になり、この四文字熟語が次第に世の中で使われるようになるんです。
もうひとつ有名な、「富国強兵」のスローガン、これもまた、正弘が作っています。老中首座をおりた翌年の安政三年八月四日付けで、幕府の諸有司への問議というかたちで、「外国通航貿易を開き、富強の基本となすべし」という長文の書簡を正弘は送っています。
この中に、「富国強兵」という文字が見えるんです。この問議の要旨は、今後は外国との貿易を為し、その利益をもって富国強兵を為すべきが肝要と、幕臣有力者たちを諭している性格のものです。
正弘の将来を見る目には、恐るべき的確さがあります。自分の余命が短いと知って、能力を凝縮、集中している感があります。当時の彼がまだ三十代と知れば、驚くほかはないです。神がかっているようにさえ見えます。
しかしそのようにする一方で、最初の会見がいかに友好的であろうとも、アメリカが最後まで友好的、紳士的な態度を続けると、あまい期待をするわけにはいきません。中国に対したイギリスのように、突如態度を変えてアヘンの購入を迫って来るかもしれないし、江戸の一部を香港のように割譲せよとか、国土の何分の一かを植民地化すると、いきなり宣言してこないとも限りません。
そうなったなら、いかに彼我の武力差が大きくとも、こちらにまだ海軍がなかろうとも、命を捨てて陸で死闘を行うほかはないので、戦争の準備も始めます。
その時の出陣図、これは「御出陣御行列役割写帳」ですね、これに見るような隊列の具体的な配置、各藩への伝達や組織構成を定め、各藩へ守備担当を割り振って、戦争の腹を固めます。江戸詰めの福山藩士はこの時、芝増上寺に陣を張り、ここを守護するとともに、正弘じきじきの采配を聞いて、国防軍の中核を担う計画になっていました。
しかし予想に反してアメリカは、日本に対しては予想外なまでに紳士的であり、クリミア戦争が長引いていたために英・仏・露、欧州列強の海軍の到着は遅れ、戦争をする必要は生じませんでした。阿部正弘の対米国防戦争の準備は、さいわい無駄に終わったわけです。
それでも一八五五年、長い老中職の激務がたたって阿部は体調を崩します。そこで彼は開国派の堀田正睦(ほったまさよし)を老中に起用して、情勢が逐一自分の耳に入るようにしておいて、療養生活に入りますが、翌々年の一八五七年の夏、老中職のまま没します。享年わずかに三十九。そういう経過ですね。
晩年の阿部正弘 女性とのロマンス
ミステリー作家・島田荘司が描く阿部正弘人間像
● 阿部正弘の死は早すぎますね。四十前ですから、これからという年齢です。もしも彼が生き延びていたら、その後の歴史は違っていたでしょうか。
これは明らかに違っていたと思います。まずはっきりしていることは、薩摩の殿様は島津斉彬で、彼は西国に並ぶものなしと言われた名君でした。阿部は明らかに人の能力を見抜く才があって、それゆえに彼と親友になっていたんです。
正弘と斉彬は、未曾有の国難のおりの盟友でしたから、正弘が生き延びていたら、斉彬の家臣が江戸城に弓を弾くことは絶対にありません。したがって、薩長連合クーデターというかたちの明治維新はありませんでした。薩摩なしでは、長州のクーデターも、かたちが変わらざるを得ない、実行はむずかしいでしょうね。
その以前に、正弘が生きていれば、彦根藩から井伊直弼という大老が出てくる展開がありません。大老の井伊が、幕府の威信ということで反幕府勢力を次々に逮捕拷問という安政の大獄をやったから、明治維新の大義名分が生じるんです。阿部がいれば、水戸の徳川斉昭を懐柔していますから、斉昭が自藩、水戸の藩士を焚きつけて造反を扇動するということが起こらないので、桜田門外の変はなくなります。
そうなると薩長クーデターがなくなり、ということは薩長政府がなくなるから、朝鮮征伐から中国大陸侵攻という展開がなくなっていた可能性も生じます。
阿部の江戸幕府は、述べたように、ペリーのアメリカ軍と大変うまくいっていました。するとのちの日米戦争がなくなった可能性さえあります。太平洋戦争と敗戦にいたる流れは、ポーハタンの船上のパーティに参加せず、アメリカを夷狄として怯えていた薩長の末裔たちによって扇動されたと、言えなくもないわけです。
そうならば、いささかロマンに過ぎるかもしれませんが、以降の日本のあり様は、まったく変わっていたでしょう。もしも日本が連合国側にいたなら、戦力の余裕から、傲慢で性急な殴打横行の日本軍の体質や、特攻隊発想がなくなります。
正弘によって抜擢された勝海舟も、同じことを言っています。
「もし伊勢殿に可すに数年の齢をもってすれば、薩長は抗敵とはならず、条約調印は勅許され、宮卿親藩の幽閉なく、志士の惨戮(ざんりく)冤罪に罹ることなく、水戸公も漸次自重の方針に傾きて、国備の年に整いしは必然なり」
もしも阿部正弘にあと数年の命があれば、薩長は幕府の敵となることはなく、条約の調印は天皇の許可のもとに行われ、安政の大獄は存在せず、維新の志士が冤罪にかかることはなく、水戸の斉昭公も次第に自重に傾いて、国防力が年毎に整っていたのは確かだ、ということです。
阿部正弘は、国防力を最短距離で整えるための布石を、完璧に打っていました。榎本武楊は、正弘の睨んだ通り、大船操船術だけでなく、万国公法を自在に操れる国際的な人材に育って戻ってくるんです。強力な日本海軍が出来上がる素地が、充分に整っていました。
陸軍も強力になっていて、士族の解体や、続く不平士族の反乱も、あのようなかたちで起こっていたかどうか。徳川の勢力と、国内の既存の士族勢力が維持されていれば、国防軍は数量充分で、おそらく起こっていないだろうと思われます。
阿部正弘の将来展望は完璧でありましたが、自身の死だけが計算外であったということに思われます。それが、あるいは日本の将来を狂わせて、今日のように国内に大量の米軍基地があり、大量の米兵が駐留しているという状況を作ったかもしれませんね。
● 晩年の阿部正弘さんというと、お団子屋の美しい娘さんとの恋愛ということがあったと思いますが。
おとよですね。彼女は「江戸名所百人美女」に数えられるほどの美人でした。
正弘は、ペリー提督の黒船四隻が浦賀に現れる一年前に、正室の謹子を病で亡くしているんです。彼女は蒲柳の質で、体が弱かったんですが、享年は、かぞえでわずかに三十一でした。
謹子のことを正弘は実際に愛しており、病床にある彼女の手を握って、終日枕もとにすわり続ける日もあったようです。愛妻の死の気落ちを詠った漢詩も残っています。
その頃母の具美子もまた体が弱っていて、本所石原町にあった下屋敷に独りわび住まいをしていたんです。だから正弘は、うまいものを買って持っては、たびたびこの母に届けていました。
その下屋敷近くに、長命寺という寺があって、その境内に桜餅を売る店が出ていたんです。桜餅は、桜の葉を塩漬けにして餅を巻き、この長命寺の住職が工夫したといわれています。この長命寺の桜餅が、おいしいと評判になっていたんですね。
当時の幕臣たちの嫉妬を買いそうな、そして現代の女性たちを立腹させそうなエピソードがここにあるんですが、謹子が死んで、謹子の実家が後添えを強く勧めるんですね。これが越前藩主、松平慶永の養女で、謐子(しずこ)という娘でした。
正室がいないと当時は何かと不都合があったらしく、正弘はさして気が進まないままに承知するんです。そして会ってみたら、なかなかの美人だったのですね。それで正弘も気に入ります。
そこでこの謐子を後添えにもらう報告を母にしようと、駕篭で石原町の下屋敷に向かっていて、長命寺の桜餅を買っていこうかと思いつくんですね。そこで境内に駕篭を入れさせ、側近に買って来るように命じたら、この時にたまたまおとよが店番をしていたんです。
駕篭の中から遠目にこの娘を見て、あんまり可愛いので、正弘が見初めるんですね。長命寺は、実際に行ってみると境内が狭いんです。これなら駕籠の中から、おとよの顔もよく見えたろうと思われます。長命寺の桜餅は今も名物で、寺の裏手にお店があります。ともあれ、母に新しくもらう嫁の報告に行く途中で、別の娘を見初めるとはけしからんという話ではありますね。
以降正弘は、母に桜餅を買うために、たびたびこの団子屋に寄るようになります。しかし激務多忙で、それから一年ほどは何も行動を起こさずにいたんですが、まもなく御三卿の田安慶頼が、彼女に気があって狙っているという噂が入るんですね。その時の正弘の七言絶句の漢詩が残っています。その中に、
「わが心急なり。春風が玉葩(ぎょくは。玉のような花)を散らすことを恐れん」
という一節があります。早くしないと、田安にやられる、焦るなぁという意味です。
『群青の時』という小説では、辰の口の屋敷にいる正弘の側室が気を廻して、彼女を上屋敷に入れてやって、正弘の晩年の世話をさせてやったというストーリーになっています。別の説では、母親の具美子が下屋敷に引き入れて親しくなり、息子に紹介したとするものもあります。
いずれが正解かは解りませんが、事実おとよは正弘の側室に入って、正弘の死を見とるんです。屋敷に入った時はわずかに十七、輿入れの時の謹子もそうでした。二人は顔だちが似ていたという話もあります。いずれにしても正弘は、何人もの美女に囲まれ、女性の点では幸せな生涯を送ったようです。
正弘の病は進んで、徐々に頬がこけて、やせ細っていきます。外貌が大きく変わり、みなを驚かせたと言います。癌の症状と思われますね。激しい痛みもあったはず、腹水や、むくみもあったでしょう。城勤めは苦しかったと思います。
若い美女を家に入れたということで、やっかみもあり、城内では陰口もたたかれます。ありゃ若い女に生気を抜かれておるぞとか、祟られておるとか、やせ細ってまるで幽霊だ、気色が悪い、などと言い立てる者もあったらしい。
いずれにしても正弘は、おとよを家に入れてのち半年で、首座を辞して屋敷で療養を始めます。おとよを溺愛するためであったという推測もあります。
しかし彼がしばしば見せる温情ですね、ペリーの船に乗って海外に出ようとした吉田松陰を、世界に関心を向ける態度はあっぱれだと言って許したりといった寛容の心は、こうした女性に対する熱い思いとも、無関係ではなかったでしょう。
けれども幸福な時は長くは続かず、それからわずかに一年と半で、彼は没します。死ぬ時には謐子の配慮に感謝し、ひとこと礼を言って去ったといわれています。阿部正弘は苦労の多い生涯でしたが、女性には恵まれた幸せな一生でしたね。
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