黒船来航と日本そして阿部正弘 「阿部正弘講演」より

黒船来航と日本そして阿部正弘

「阿部正弘講演」より

             

幕末の世界情勢


黒船の来航は一八五三年ですが、幕末当時の世界情勢は、いったいどのようなものだったでしょう。日本を取り巻くアジアの情勢も、だいたいどのようなものだったのか、これについてまずお話しします。

 多くの日本人たちが誤って認識していたり、理解が不徹底であったりする部分がここなのですね。

 そうなった理由はわが国の教育です。近現代史の世界地図が、充分に教えられていないわけです。今日はそのあたりもある程度踏み込んで事実をお話しし、阿部正弘の作った藩校「誠之館」卒業生のみなさんには、現実をある程度認識してもらい、これを材料に、将来に向けて、自分の考えを構築するようにして欲しいと考えます。


 学校で教えられないということは、事実が隠されている、というに近いのですが、では何が隠されているのかというと、阿部正弘と黒船来航の時代、これは十九世紀のなかばですが、この時代の世界のありよう、植民地時代の現実ということです。ついでに、誰がこれを終わらせたか、という問題もあります。

 何が何故隠されているのかというと、この時代にヨーロッパの白人たちが、植民地の庶民に対して行った非道な仕打ちというものが、隠されているのですね。欧州人は今、人権外交ということを言っています。キリスト教の博愛主義とか、文化的交流、人種平等も強調されますが、それはこの時代の反省に立つもので、それゆえに、現在世界のリーダーを自認する人たちにとっては、自分たちこそが近年、アジア、アフリカに対して悪魔の仕打ちを為した張本人、という事実は具合が悪いのですね。

 もうひとつは、先の太平洋戦争で敗戦して、アメリカの進駐軍、GHQが日本に入ってきて、いわゆる「WGIP、ウォー・ギルト・インフォーメイション・プログラム」と呼ばれる洗脳教育を日本人に対して施した成果が、実は今も続いているわけです。この洗脳教育は、昭和二十七年まで続けられました。

 日本のラジオや新聞のニュースの原稿や記事を二部提出させて、一部は保管、もう一部に検閲機関が徹底して赤字を入れて返し、これを滑らかな日本語にするように、と命じられました。

 そのポリシーは、日本軍の行動を美化したり、讃えたりする表現は厳禁、旧軍は侵略と暴力行為の犯罪集団であることを強調、日本の軍人や時に政治家も愚かであることを強調。米軍への批判は厳禁、もっぱら反省に徹する。同様に連合国側、中国、朝鮮、ソ連等の国家のふるまいにも批判はNG、といったルールですね。

 これによって何が起こったかと言うと、マスコミの為政者軽視とか、現在インテリ層を形成する当時の成績優秀な者たちが、こぞって左翼化したということです。一流大学の教授たちも、多くが左翼思想を持つ結果になりました。

 これは今日になってくると、実はアメリカの計算違いも目立ってきたわけです。国民が平和憲法の順守、自衛隊違憲、国防費削減、戦争反対ばかりを盲目的に叫ぶようになって、日本の領土侵攻を目指す側、つまりアメリカにとっての敵国側が、日本を侵略しやすくなってきたわけです。ということは、現在ここを拠点にアフリカ南端まで行動している在日米軍基地にとっても具合が悪いわけです。日本から、ひいてはアジアから追い出されることになります。

 現在の憲法は、拉致被害が出ようと、尖閣諸島を獲られようと、侵攻軍にレイプされようと、いっさい闘ってはいけないと言っているわけですから、武力侵攻をもくろむ側には、こんなありがたい憲法はないわけです。国際法にも違反しています。国際法は、防衛戦争は正当な権利として認めていますから。つまり平和憲法というのは、戦勝国が敗戦国に課した罰なのですね。裸で廊下に立っていろという罰です。押し付けた側も、未来永劫これを使えとは思っていなかったでしょう。

 また戦争反対を叫ぶ日本人は、何故なのか、侵略しようとする側には、いっさい戦争反対を言いません。侵攻を公言する国の大使館に、デモさえしない。侵攻を防ごうとする国内政府ばかりを罵倒糾弾する。少し考えればこれは異常な事態で、あきらかな洗脳の成果です。

 現在日本の自衛隊の予算の六割は人件費です。装備の近代化などに費やされる予算は、だいたい三~四割です。

 北朝鮮、韓国、中国、ロシアに接している日本は、現在、地球上最も危ない場所のひとつに向かっています。しかし政治家と財務省によって、国防予算は前年度比で毎年五千三百億円しか増額できないと決められてしまいました。平和憲法の精神です。

 そのうちの五千億円が社会保障費で、武力に関わる科学技術費、建設費、防衛費等々は、そのうちの三百億きっちりという指示になっています。中国は宇宙戦争に向けて年々膨大な予算を割いていますから、年々防衛力の差が広がっていて、きわめて危険な情勢ですね。


 戦後GHQの指揮下でWGIPの検閲を行ったのは、英語が堪能な日本人エリートでしたが、彼らは大変に給料がよく、自分の仕事の内容は、妻にも話さないようにと口止めされました。

 検閲を指揮した者は、GHQのアメリカ軍と考えがちですが、実のところは、思想的に共産圏に属する「コミンテルン」と呼ばれる工作員も大量に占領軍に混じっていたわけです。当時こうした工作員は、ホワイトハウス内部にもいて、日本に強硬なハル・ノートを戻して、太平洋戦争の回避を妨害した者、つまり日米を開戦させた者も、デクスター・ホワイトというソ連のスパイでした。日本側は、実は何度も何度も和平提案を送り続けていたんですね。ホワイトは戦後、アメリカで赤狩りが始まったので、ビルから飛びおり自殺をしています。

 何故日米を開戦させたかというと、ヒトラーに攻撃されていたソ連を助けるためであり、共産思想の世界浸透という遠大な計画の一環でもあります。大きな戦争で負けた国は、社会主義国側に組み入れて、国民を洗脳しやすいからです。

 現状を見ると、洗脳は充分に成功してはいますが、天皇制度があるために、革命は絶対に起こせないということにクレムリンは気づくわけです。ゆえに工作員・政治家たちは、天皇制否定、天皇処刑を言うようになります。これは今も、この思想の政治家たちは内心では思っています。発言を注意深く聞いていると解ります。

 ともあれさまざまな手段によって社会主義国家を増やしていき、最終的には世界を共産主義思想で満たす、という目的を持った組織がコミンテルンでした。この組織は一応もう消滅しましたが、実は今も残党は、百年の遠望の計にしたがい、さまざまな場所で世界制覇の準備工作を行っています。これを「ペキンテルン」とジョークで呼ぶことがあります。拠点がペキンにあるからですね。


 ともかく、戦後間もなく日本人に対して行われた洗脳教育の成果が現在もまだ消えておらず、こうした白人の行った残虐行為は隠され続けているということです。もうこうした事実は公平に公表し、若い層もよく受け止めて、しかしアメリカを嫌いになる、イギリスを嫌いになるといった極端には走らず、客観的で合理的な考え方を構築する必要があります。もうそういう時代ですね。

 国際政治とは、本来そういう宣伝と隠蔽を行うものですから、これを悪とばかりは言えないんです。国際政治とはそうしたゲームのことです。GHQ時代の洗脳教育の残滓を引きずって、朝日新聞等日本のマスコミは、戦後中国軍の行ったチベットやウイグル、内モンゴルの人々へのレイプや残虐行為は、いっさい報道しませんでした。

 白人の自由主義圏内にも、社会主義の圏内にも、また旧軍にも、隠したい事実は無数にあるのです。われわれはそういう事情を、これからは知ってもかまわない自由の時代です。その上で、ドイツ人に対するポーランド人のように、知った上で許し、仲良くつき合う必要があります。


 十九世紀なかば、日本への黒船来航の時代、世界は非常に極端な状態下にありました。現在地球上には、約二百の国が存在しています。ところが黒船来航のこの時代、世界地図には十数カ国しか存在しなくなっていたんです。何故かというと、アジア、アフリカの諸国は、すべてといってよいくらいに、これは誇張ではありません、地球上はほぼすべて、ヨーロッパ白人国家の植民地になっていたからです。これも、先進国はなかなか語りたがらない事実です。

 何故こんなことが起ったかというと、欧州が大航海時代に入り、発達した武器による戦争の技術に、ヨーロッパとアジア・アフリカとで、大きな差がついたからですね。最新科学の成果です。先進国では産業革命が起こり、同時に戦争技術にも航海技術にも、これによって大きな進歩がもたらされます。

 欧州は狭い地域に隣り合っているので、互いに隣国を見て競い合い、それほどの差はつきません。しかし大きく距離が離れていると、蒸気機関の恩恵も、航海術の発達も、さまざまな銃器による戦闘力の向上にも、無関係に時がすぎてしまいます。

 その結果、アフリカ大陸で、白人の植民地にならずに独立していられた国は、エチオピアが一国だけになりました。

 南アジアでは、完全な独立を保っていた国は、タイランドが一国だけになります。これにトルコを入れてもいいのですが、トルコは欧州側だという考え方もあるでしょう。

 そして極東アジアでは、完全な独立を保っていたのは、わが日本が一国だけです。

 つまり、世界中で独立を保っていた国家は、エチオピア、タイ、日本、このわずか三ヶ国だけであったわけですね。ほかはすべてヨーロッパのどこかの国の植民地、ということはそういう国の一部になっていたわけで、だから地球儀の上に書かれる国名は、十数カ国の名前だけで充分だったということです。アメリカ大陸東側も、独立戦争の前は、イギリスという国であったわけです。


 しかし独立が保てていた国も、必ずしも強かったからではないんです。アフリカ大陸のエチオピアには、非常に手強い風土病があって、ここに入った白人は感染して死亡したわけです。風土病はインドにもありましたが、こちらはイギリスの持つ近代医学の力でなんとか対抗できた。しかしエチオピアのものは強力で、お手あげであったわけです。だから白人勢力はどこもここには手を出せず、結果として独立が保たれました。病気が国防力になったわけです。

 タイは、イギリスとフランスの力の狭間に落ち込んでいた。イギリスとフランスが左右から侵攻してきて、この地域でぶつかり、にらみ合うかたちになってしまって、どちらかが手を出すと、大戦争になってしまう危険が生じたわけですね。だから英仏は動けず、結果としてタイという王国は、弱々しく独立していたということです。

 ハワイとかグアムとか、小型の島で、大陸からも離れて、たまたま白人の視界に入らなかったために、放っておかれたというところはありましたが。

 自前の軍事力と政治力で、なんとか完全独立を果たしていた大きな国は、したがって日本がただ一国のみであったということもできます。このことも、不思議なことに、日本人自身には案外知られていません。


 日本が世界でただ一国の完全独立国であったという事実は、国力、軍事力があったということで、誇ってもよいことなのですが、やはり地理的な条件にも助けられています。ヨーロッパやロシアから見て、日本の位置は東の果て、極東にあたります。これは彼らの世界地図を見れば一目瞭然に解ることで、日本列島は右上のすみに描かれます。

 他方、アメリカから見れば、日本は西の果て、極西にあたります。つまり欧米双方から見て、日本は最も離れた場所に存在しています。

 こういう場所に軍事力を行使し、もしも戦が長引けば、兵站、つまり補給線が延びすぎて、食料や弾薬の補給、医療設備の設置等がおろそかになって、苦しい闘いになる訳です。非常にお金もかかる。もしも日本がアフリカのマダガスカルあたりにあったとすれば、いかに侍の戦闘力が高くとも、強力な近代兵器の前には旗色が悪いから、侍は大量に殺され、早晩占領されて植民地になっていたはずです。



近隣の中国や韓国、フィリピンやヴェトナムなどは、どのような状態だったのでしょうか。

まず中国、ここは惨憺たる状態でした。

 中国では一八四〇年にアヘン戦争というものが起って、これが二年間続きます。これがどういう戦争かというと、イギリスは、中国からお茶、絹を輸入していました。このお茶は、最初は緑茶だったのですが、やがてウーロン茶、紅茶が中国人によって発明され、これらをイギリスは次々に輸入していきます。

 これらは大量生産ができる商品ですが、イギリスは、中国に輸出できる商品というと、望遠鏡とか各種機械等、高価格のものばかりであったわけですね。こういうものはそうそうは売れません。大量生産ができるものというと綿織物しかなく、これは中国では需要がなかったわけです。そこでイギリスは、輸入超過に陥って、貿易赤字になるんですね。

 これをなんとかしたいと考えていたおり、当時インドで生産されていたアヘンに、イギリスは目をつけたわけです。これを中国に大量に買わせて、貿易の均衡をとろうと発想したわけです。

 しかし中国の政府がこれを嫌って、道光帝と林則徐が取り締まりにあたります。商品を押さえて焼き捨てるなどした。これは当然の処置ですが、イギリスは怒って、戦争を仕掛けて勝利し、南京条約を締結して、莫大な賠償金と、香港を割譲させたという経緯です。無理が通れば道理が引っ込むの典型ですね。

 香港が中国から切り離されてイギリス領になった。これが一八四二年のことです。黒船来航の十年前ですね。イギリスはここを足がかりに黄河流域、中国の中部を獲っていって、保護領としていきます。


 満州、これは清の母国で、漢民族とは違う女真族の国です。つまり清は、女真族による征服王朝です。満州は、日本が建国した傀儡国家としてばかりが知られますが、これもまたWGIPの洗脳効果というもので、実は一八六〇年に、日本の前に帝政ロシアが獲っています。ロシアははるばる東進してきてシベリアを獲り、さらに南下して満州も獲ります。この時、満州を母国とする清の政府は、驚いたことにほとんど抵抗らしい抵抗をしていません。

 これを足がかりにロシアはウラジオストックというロシア人の街を作り、旅順港を手に入れます。ここにロシア艦隊を置き、さらに朝鮮半島南端の、釜山にほど近い鎮海湾も手に入れます。ここは元寇の役のおりに、蒙古水軍が日本討伐に出発した港です。時代が下ってロシアもまた、ここを足がかりに日本征服と、植民地化をもくろんだわけです。

 同時に帝政ロシア軍は、満州から南下して中国にも侵入し、中国の北部を勢力下に置きます。

 朝鮮半島はどうかというと、ここは長らく中国の属国で、この時朝鮮は、国家たるの自覚をもってロシア軍に抵抗することをしていません。ロシア侵攻軍はそれで、日本から見ればもうすぐ対岸に、姿を現してしまったわけですね。ウラジオストックとは、「東を穫れ」という意味です。日本が清国と戦争をしたのは、ひとつには朝鮮に清の属国を離脱し、独立させたかったからです。そうすれば、一国のプライドをもって、ロシアと闘ってくれるかと期待したわけです。日本としては、ともに帝政ロシアと闘ってくれる国が欲しかったわけです。

 これは成功し、朝鮮は日本の援助で独立して大韓帝国と名乗ります。しかしこの国は、清に代えてロシアにおもねる姿勢も見せて、南下する侵攻勢力の防波堤足り得ませんでした。そこで日本は、単独で防衛戦争をするほかはなくなったわけです。

 こうした経緯もやはり、なんとなく隠されています。その後朝鮮を植民地とした罪状ばかりが言われる。日露戦争は、国際法でも認められた防衛戦争の範疇であったわけですが、不当な侵略戦争と強弁されて、日本人に教えられてきました。

 アジアにもしも日本がなく、日本が独力で帝政ロシアと闘うことをしなければ、ロシアは中国の北部、朝鮮半島、日本島を併合しただけではなく、南下して沖縄、台湾、フィリピン、ニュージーランドあたりまでを獲って、ことごとく植民地化した可能性があります。これを日本一国が、身を挺して止めたわけです。この事実は誇ってもよいことですが、こういったことへの言及も、戦後WGIPによってタブー化され、なんとなく隠されることが現在も続いています。

 一八八五年にはフランスが中国南部、揚子江周辺を獲り、一八九七年にはドイツがチンタオを獲りますが、阿部正弘の時代は、イギリスがアヘン戦争をして、香港を取ったというあたりですね。

 帝政ロシアは、まだ満州までは来てはいません。モスクワから東進して、シベリアはすでに獲っていました。これは述べたように、中国や日本は極東で、ヨーロッパから最も遠かったために、侵攻と植民地化が遅れたのですね。あわせて、オスマン・トルコとの間に、クリミア戦争が起っていたという事情もあります。


 阿部正弘の黒船来航時代、つまり一八五三年までに、大陸以外、極東アジアの大平洋海域に起った侵攻と占領、そして植民地化についてもざっとお話すると、一五二九年にスペインがフィリピン島を占領、植民地化します。これはのちにアメリカがスペインと戦争して勝利したために、宗主国がアメリカに変わります。

 フィリピンは非常にのんびりした島国で、大陸からほどよく遠かったために、周囲の国からの干渉がなく、欧州が大航海時代に入っても、日本で言うところの弥生時代の生活をしていたといわれます。だからスペインは、中国や日本に向かう航海の途中でこの島に立ち寄って、無抵抗ゆえに、ほんのついでに植民地化したと言われます。

 一八〇〇年には、オランダがインドネシア島を占領し、植民地化します。イギリスもこの一部を獲ります。

 オーストラリアの場合は、最初に訪れた白人はオランダ人でしたが、植民地には不向きと看做されて無視され、一七七〇年にスコットランド人のジェームズ・クックが上陸します。以来イギリスが支配し、アメリカが独立したために、代わってここがイギリスの流罪植民地として使われるようになります。こういうプロセスを経由して、一八二八年に全土がイギリスの植民地になりました。

 アメリカ大陸はコロンブスによって一四九二年に発見されます。以降イギリスの移民が多く入り込み、オーストラリアと同様、一時イギリスの犯罪者の流罪植民地としても使われますが、一七七六年七月四日に、フィラデルフィアでイギリスからの独立宣言をします。そしてアメリカ合衆国という独立国になります。

 しかしアメリカは、十八世紀にできた新興国家で、大平洋への進出が遅れるので、阿部正弘の時代にはまだハワイ王国はアメリカに侵攻されてはいず、カメハメハ大王などが統治する独立国でした。アメリカはハワイ島は放っておいて、建国からまだ百年も経たないうちに、日本を先に訪れたわけです。


 もう一度大陸に視線を戻します。帝政ロシアですが、一六二九年にシベリアを占領、蒙古人を追い出して植民地とします。ウラル山脈以西を国土としていた帝政ロシアですが、もともとは元帝国の支配地で、長く蒙古人の圧政に苦しんでいたのですが、鉄砲という近代火器を手にすることができたために、蒙古人を追い出すことができて、元帝国の広大な領土をそのまま引き継いで、バルト海から大平洋に跨がる広大な領土の帝国になれたわけです。

 大英帝国は、一七六一年にはインド王国を占領して植民地化、続いて一八六二年に、マレーシアを併合して英国領にします。

 同じ年にフランスがインドシナ一帯、ラオス、ヴェトナム、カンボジアを併合し、植民地化します。そしてここを足がかりに徐々に北上、一八八五年、これは黒船来航以降になりますが、中国南部を浸食して併合、揚子江沿岸を保護領化していきます。


 老中首座、阿部正弘登場の頃、中国はまだ香港をイギリスに取られたくらいで、なんとか独立を保っていましたが、間もなく満州と北京の北方をロシアに、中部の黄河沿岸をイギリスに、南部の揚子江沿岸をフランスに獲られて、かろうじて北京周辺を影響下に置く小国となり下がる運命にありました。

 そして中国以外の地域はというと、フィリピン、インドネシア、オーストラリア、インド、インドシナ、インドシナというのは、ラオス、カンボジァ、ヴェトナムですが、これらがすべて、すでに欧州列強の植民地になっていたということです。

 そしてこれが大変重要な視点ですが、広大な中国は、実は中級国家のアメリカも狙っていたということです。そのためには、サンフランシスコから香港か上海を結ぶ航路の開拓が、必ず必要となります。

 アメリカが日本を開国させるにあたっては、捕鯨船団のための水、食料、燃料の石炭、鯨油を採るための薪の補給というのが表向きの理由でしたが、実のところ、アメリカも遅れじと中国の利権を狙っており、そのためには急いで太平洋航路開設の必要性があって、ゆえに中継基地として日本の港を開かせる必要が切実にあった、そういう可能性があるわけです。このことが、これまでの歴史家の視点から落ちています。

 これもまた当時から今日まで続く、伏せられ気味の事実です。何故なら、アメリカが中国を植民地として狙っていると日本人に知られたなら、日本が警戒して、開国拒否が予想されたからですね。自分も植民地化される危険があると日本が気づきます。

 その証拠として、捕鯨船の入港地と主張して強引に開かせた伊豆、下田の港には、以降アメリカの捕鯨船は一度も入港していないのです。日本側にペリーがした話とは多少食い違っているわけですね。

 さらに、開国させて下田にやってきた領事は政治家ではなく、民間の一商人ハリスです。ハリスはアメリカ国内ではそれほど重要な人物ではなく、日本をあまり重用視していないように見えます。日本を、中国までの航路の中継港としてしか見ていなかったという証拠に見えます。

 ともあれこうした欧亜の国際情報は、オランダを通じて日本の江戸幕府にも逐一入っていました。阿部はこうした情報を用いながら、なんとか日本国を列強の植民地にはせず、世界唯一の独立国の地位を保ったまま、未曾有の難局を乗り切ることを要求されていたわけです。



植民地にされた国の悲劇は、大変なものがありました。具体的にどのようなことがあったのか、また何故このような暴挙が、国際世論の力で止められなかったのでしょうか。

 白人による植民地支配の実態は、それは本当にひどいものでした。隠されていますが、現地人にとっては地獄以上です。例は無数にありますが、オーストラリアの原住民、アボリジニに対するイギリス人の虐待は、筆舌に尽くしがたいものです。

 草原の狩りと称して、白人はアボリジニの射殺を日常的に楽しみました。メルボルンの南方の島、タスマニアのアボリジニが最も多くこの被害を受け、ついに絶滅してしまいます。

 アボリジニの女性へのレイプも日常的に行われて、これはどこの植民地も程度の差こそあれ同じです。ポルトガルなどは婦女暴行を合法と、法を変えてしまいます。

 これはボスニア・ヘルチェゴビナの戦闘中とか、チベットに対する漢民族の、いわゆる「民族浄化」と称される愚劣な政策の先駆になります。ポルトガルの植民地においてなどは、原住民の娘へのレイプによって子供が生まれれば、それはハーフなので風貌が違いますから、男の子ならヨーロッパ流の名前を付け、銃を与えて現地民の労働を監督させました。支配階級にしたわけです。

 オーストラリアでは、アボリジニの娘を大勢とらえて大きな岩の上に全員を立たせ、銃で脅して落下させ、岩に叩きつけられて死ぬのを、酒を飲みながら眺めて楽しむ、というような信じがたい遊びも行われたと言われます。

 あるいは大勢の原住民をまとめて無人島に運び、唯一の飲料水になる水源に毒を入れて、大量殺害を為したという証言もあります。これは北米大陸のインディアンに対するイギリス人に見るような、原住民の絶滅政策です。全員を殺してしまえば、クレームを言う者がなくなりますから。

 インドでは、ガンジーがイギリスからの独立運動を起こし、伝統の糸車を回そうという運動を起こすと、糸車を回せないように、見せしめとして三万人ものインド人の右手首を、イギリス人は切り落としてしまいます。また優秀な青年が登場すると、軍隊がやって来て彼を逮捕し、両手首を切り落とすということもしました。これで彼は、もう民衆のリーダーにはなれなくなります。

 フランスの植民地では、優秀な若者が出現すると、些細なことで因縁をつけて逮捕し、トイレの穴が開いただけの狭い牢獄に両手両足を鎖でつないで幽閉し、衰弱を待ったようです。このようなことをすると、すぐに死んでしまいます。


 そのようなひどい行いに、反対の国際世論は出なかったのでしょうか。また何故白人の支配を経験した植民地の人々に、白人に対する怨みの声が少ないのでしょう。

 ここまでのことをした白人に対するよりも、従軍慰安婦の制度があったとされる日本軍に対する韓国人の反日の声の方が遥かに大きく、根強く見えます。

 日本の従軍慰安婦は、軍による強制連行の証拠はないようだし、これは事実でしょう。ただ軍が、慰安所の設営は望んではいました。これは、かつての植民地の民が受けたような性被害を現地人に与えないためでありましたが。朝鮮半島には、日本語を話す現地の慰安婦探しの職業人がいたようです。

 韓国に怨嗟の声が大きいのは、北朝鮮からの工作員が大量に韓国に入り、教育中枢やマスコミ、政治世界に食い込んで、反日感情をあおる教育を長期間続けて国民に反日感情を育て、これに呼応して日本人に嫌韓感情が育つことを計算して、来るべき第二次朝鮮戦争勃発の際、日本にある米軍基地からの米軍の出撃の足止めを、日本国民にさせようという計算があると思われます。

 金日成は生前、アメリカの参戦さえ押さえられれば、北は第二次朝鮮戦争に勝利できると言い続けていました。これも国家百年の遠望ですね。日本人は、洗脳教育を施すのが不得手ということがあります。あまり才能がない。他方共産圏の人々は上手です。

 また大航海の時代と、植民地獲得競争の時代は、もう遠い過去の出来ごとであり、時代が違う。当時はそういう暴力と殺戮の時代であったからと、言えば言えるでしょうね。植民地の民がそう認識してあきらめている。またこれを報じたり、告発する世界規模のマスコミも、当時は存在しませんでした。

 それから白人宗主国の持つ、キリスト教の博愛精神や、さまざまな魅力的な欧州文化ですね。ショパンやモーツアルトの音楽、ゴッホやルノアールの美術、見事で美しい建築技術や町づくりのセンス、こうしたもので被植民の民の尊敬心を育て、支配階級の魅力化を演出し、現状の受難は、文化が遅れた地の人々が成長するために必要なプロセスだとする理解を、巧みに摺り込んだという観察もあるでしょう。これが、要するに洗脳です。白人は、こうしたペテンにたけているんですね。

 しかし現在の欧州におけるテロの頻発を見ても、被植民の地の人々に、怒りや反発心がまったくないということはないでしょうね。



現実には、大変な数の人々が、白人たちによって殺害されました。

植民地の民が被った被害は、これが始まった大航海の時代にまで視野を溯らせれば、おそるべきもの、筆舌に尽くしがたい悲惨さがあります。

 大航海時代は、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマのリスボンからインド航路の開拓。ジェノヴァ商人、クリストファー・コロンブスに託したスペインのアメリカ大陸発見、等々から始まります。

 一五二一年には、スペインのコルテスが北米、メキシコにあったアステカ王国に進出して征服、植民地化しますが、この時はアステカ王国国民の男性をほぼ絶滅、つまり皆殺しにしています。さらには、欧州から持ち込んだ疫病、天然痘、はしか、風疹も蔓延して、アステカ王国は絶滅というまでの憂き目に遭います。

 また一五三三年には、南米のインカ帝国をスペインのピサロが侵攻し、征服して、金銀の財宝を奪ったうえにこれもまた、男性を皆殺しにしたと伝えられます。

 同時期、ポルトガルはブラジルに侵攻して、これも国民を大虐殺し、植民地化しています。

 これら南北アメリカの平定で、スペイン人が殺害した現地人の数は、一千五百万人といわれます。

 イギリス人がアメリカ大陸に入り、原住民のインディアンをこれもほぼ絶滅させてアメリカを建国しますが、殺害したインディアンの総数は、諸説はありますが、最大説は四千万人といわれます。

 インディアンが誇り高く、奴隷労働を受け入れないので、アメリカはそののち、アフリカから奴隷を拉致し、強制連行してくる国策を採りますが、この時代に殺害した黒人の数は、千六百万人といわれます。

 インド統治でイギリス人が殺したインド人の総数は、約千七百万人といわれます。

 先の大戦で日本人が大量に戦死したということがよく言われますが、これはわずかに三百万人です。植民地獲得戦争の時代に、いかに多くの現地人が殺されたかが解ります。


 そしてこれも重大な視点ですが、インド人の言ういわゆるアーリア人、アングロサクソンやスラブ系、ラテン、中東、これらはすべてもとはアーリア人ですが、彼らは、本来固有の領土というものを持たない民族なんです。もともとはカスピ海と黒海の間の草原に暮らしていた遊牧の民といわれます。

 それが紀元前二〇〇〇年から一二〇〇年頃にかけて移動を開始して、ヨーロッパと中東、インドに南下して侵略し、先住民を殺戮し、土地を奪って住み着いた民族です。もともとそういう移動と侵略の血を持った民ですから、大航海時代に侵略と殺戮を行うのは、本来的な彼らの血がよみがえったのだという言い方も、あるいはできるかもしれません。


 大航海時代が始まり、最初に植民地の獲得に乗り出した国は、ポルトガルとスペインでした。これは十五世紀のことです。何故かこの二国がヨーロッパで最初に力をつけ、外洋に乗り出します。そして植民地を獲得すれば、その土地の富を根こそぎ収奪し、祖国に持ち帰るのでますます国力を富ませ、周囲と差がつきます。軍事力も向上します。だからこの二国が欧州で突出した力を持つという時代は、長く続きました。

 もうひとつ、この時代に二国を突出させ続けたものは巧みな政治行為で、自分たち二国を追って外洋進出しそうな諸国を牽制し、同時にスペイン・ポルトガル二国で争いを起こして自滅し、周囲につけ入らせることがないようにと定めた「トルデシリャス条約」というものを、ローマ教皇に申し出て彼の名のもとに締結しています。

 これは一四九三年のことで、「教皇子午線」と呼ばれる西経四十六度三十七分を植民地分界線として定め、そこから東で発見される地はポルトガルに、西で発見される地はスペインに権利を与えると定めた、非常に得手勝手な二国利益の条約でした。

 十八世紀に入って、ブラジルの奥地に金やダイヤモンドが発見され、ポルトガル人がこれを求めてさかんに境界線よりも西に進出するようになったために、この条約は次第に無効化して行きました。


 十八世紀に入ると、大英帝国が力をつけて海洋に乗り出し、力の衰えたポルトガルの植民地を順次奪うかたちで領土を広げていき、ついには陽の沈むことがないと言われる世界大帝国を築きあげます。この時代になると、イギリスに続いてオランダ、ロシアも力をつけ、植民地獲得に乗り出します。

 十九世紀に入ってからは、フランス、ドイツ、アメリカも力をつけ、海洋に乗り出して、この獲得競争に加わるようになります。そしてついにアメリカが、日本に到達します。

 アメリカのペリーが浦賀にやって来るのはこの時代、十九世紀のことですが、新興国家アメリカはかなり出遅れていて、しかも国力的にはまだ超大国にはほど遠く、中級の一国にすぎませんでした。

 イギリス、フランス、ロシアの日本到達が遅れたのは、ペリーの浦賀到達の一八五三年から一八五六年まで、クリミア戦争が続いていたからですね。

 この戦争は、ロシアとオスマン帝国の戦争ですが、フランスとイギリスがオスマン帝国を支援し、実質上、ロシア対イギリス・フランス連合軍の闘いになりました。このために三国は、日本に来航する余裕がしばらくなかったわけです。

 先進国家の傲慢が、このあたりでもうひとつ起ります。日本が開国してのちのことですが、スペイン・ポルトガルに追いつき、すっかり力をつけた欧州の列強諸国のために、「アフリカ分割会議」というものがベルリンで開かれます。十九世紀も末、一八八四年のことです。

 アフリカ大陸には人間が住んでいるのにも関わらず、アフリカ大陸の上に勝手に線が引かれて、ヨーロッパの各国に分割されます。ヨーロッパの列強同士が争そわないようにするための処置です。



 日本の鎖国政策は、後世言われるような、国際視野の欠如した、愚かで臆病一方の国策であったでしょうか。

 もっと早くから国を開いていれば、黒船来航時の幕府や江戸市民の取り乱し方に見るような、海外軍事力に対するパニックは避けられたでしょうか。

 これはむずかしいところです。なんと言っても、日本以外の国がすべて白人の植民地になっていたのです。唯一独立を果たせていた国の国策を、軽々には批判できませんね。

 日本がもしもドイツやフランスの位置にあれば、周辺の国の科学力、近代兵器開発の情報が逐一入りますし、それらの設計図や材料を手に入れる機会もあるでしょうから、置いていかれないように頑張ることはできます。しかし実際には距離が離れすぎているので、情報は一部しか入らず、遅れずにやっていくのはすこぶるむずかしかったろうと思います。

 軍事力の整備とは、戦争に勝つ力ではなくて、侵略国に攻撃をためらわせる力のことです。こちらが負けそうであるとか、大きな被害が出そうだと考えば、攻撃は控えられます。しかし相手に抵抗力がなく、簡単に勝つと思えば、報道機関もない当時のことですから、どうしても侵略は起ります。

 十六、十七世紀の日本は、侍の士気は高かったと言えますが、軍備は到底充分とは言えませんでした。そういう状態で、当時の日本は事実上開国していたわけです。キリスト教の布教も信仰も、事実上禁止されてはいませんでした。

 アジアや日本から帰国するポルトガルの船は、アフリカ喜望峰のあたりでオランダ船に襲われるのが常だったのですが、というのは、ここがオランダ領だったので。江戸幕府が鎖国を決定するのは、一六一〇年代、ある船から、ポルトガルの王に宛てた日本人の書簡が見つかったことに端を発します。

 当時日本国内の日本人カトリック信者は、およそ六十五万人に達していました。ポルトガル系のイエズス会と結託していたか、それとも別の宗派であったかはもうはっきりしないのですが、もしもポルトガル国家からの支援があれば、百五十人程度の宣教師が膨大な日本人信者と結託して、日本の政権転覆を企てることは可能だと告げる内容でした。

 信者たちで蜂起すれば、戦費さえあれば日本をカトリック国家に変えられるとするキリスト教者の手紙は、オランダにとっては宝となる種類のものだったわけです。プロテスタント国家オランダは、カトリックのポルトガルを激しく憎んでいて、この手紙を日本の為政者に見せれば、極限的に危険なポルトガル人を日本から追い出し、日本の利権をオランダが独占できるからです。

 日本の鎖国は、秀吉のバテレン追放令があったにせよ、決定は幕府の着想ではなく、オランダの進言を入れたものでした。日本がもし鎖国しても、開国していると同等の情報を自分たちが提供し続けると、オランダは確約しました。それで幕府は鎖国を決心できたわけですが、先に述べたように、科学最先端の地との長距離による科学力、軍事力の遅れのまま開国を続けていることは、こうした列強や宗教勢力の画策、あるいは中国のようにアヘンを入れられる危険が、絶えず存在していたからです。

 進んだ欧州の科学を学ばせるため、優秀な科学者を大量に、しかも毎年欧州に派遣し続けるという手も、なくはなかったのですが、膨大な費用がかかります。欧州の科学力と軍事力の維持は、植民地から上がる莫大な利権があったから、というところもあります。鎖国の決断は、日本という国の国家予算の規模を考慮に入れれば、やむを得ないものであったと考えられます。


             

黒船の来航

米国ペリーの黒船は日本に敬意・尊敬と戦略・脅威をもって来航した


米国ペリーの黒船』

 日本を取り巻くアジアとか、世界の状況はお話ししたようなことです。日本を除いてみんなヨーロッパの植民地になっていたということです。

 ではそろそろ黒船について語ります。最初に近くでこの巨大な姿を見た時、はじめてのことで、日本人はみんなびっくりしたということがよく言われます。

 この点にも、やや間違いがあるんです。西洋の船が日本のそばに寄ってきたことは、実はこれまでに何度もあるんです。

 でも江戸湾に入ってきたのははじめでは、そういう質問が出るでしょうね。外国船はみんな長崎に廻っていたので。

 実はこれも違うんです。巨大な黒船がはじめて江戸湾に入ってきたので、日本人はみんな驚いて腰を抜かした、というストーリーで語られることが多いのですが、江戸湾に入ってきた外国船事件は、実はそれまでに何度もあるんです。

 一八一八年の六月、イギリス海軍のゴードン艦長の船が、江戸湾に入ってきています。ただこれは、黒船ほど大きな船ではありません。

 一八三七年にはアメリカの商船モリソン号も、日本の漂流民を返しに、江戸湾に侵入しています。アメリカは見返りに日本と貿易を望んでいたのですが、陸から砲撃されて、退散しています。

 一八四六年には、アメリカ東インド艦隊、ジェームス・ビドル艦長のコロンバス号とヴィンセンス号という二隻の軍艦が江戸湾に入り、漂流民の救助と交易の開始を求めています。が、日本側からすげなく断られました。

 これらはどれも、おとなしく湾を出て行ってくれたので、ことなきを得ています。

 しかし黒船の江戸湾侵入は一八五三年のことで、はじめて見るという若者も多かったでしょう。当時の瓦版には、さながら竜が海を進むがごとし、という書かれ方をしていますね。あるいは伊豆の大島が動き出したようだ、と言って騒いだ人もいたらしい。

 ともかくこういう過去があったのでペリーは、十隻レヴェルの艦隊を組んで威圧しなくては駄目だ、という判断をしていたのですね。


 けれど黒船、大きかったのは確かです。では、おおよそどのくらいの大きさだったのでしょう。当時の日本の船は、だいたいどのくらいの大きさだったのでしょう。

 当時日本人が運用していた最大の船は、「千石船」と呼ばれるものです。これは全長がおよそ二十五メートルです。一方黒船は、最大のサスケハナ号が全長七十八メートル、三倍の長さ、大きさがあります。

 排水量は千石船が二百トン、黒船は三千八百二十四トン、およそ二十倍です。

 乗員数も、千石船が百人乗り、黒船は三百人です。

 動力はもちろん黒船が蒸気動力で、千石船は風力のみ、風がやんだらびくとも動けません。

 長さが日本最大の船の三倍もある巨船が、黒い煙を吐いて、風がなくてもずんずん進んでくるので、それは日本人も驚いたでしょう。しかも黒船は、大砲を積んだ、戦争をする船です。それが時おり祝砲と称して、空砲をどんどん撃つので、これは肝をつぶしたと思われます。撃ちはじめたら、二十発、三十発と続けて撃ちますので。

 黒船は、普段から祝砲よく撃ちます。味方の船と合流したら、挨拶としても撃ちます。だから彼らにとっては特別のことではないのですが、しかし日本人は、外国船が近くで大砲を撃つのはそれまで見ていませんから、仰天したことは確かで、ペリーとしては、日本人が受けるであろうその衝撃や恐怖感も、当然計算に入っていました。


 黒船の、日本側への要求というのは何だったでしょうか。貿易しましょうということだったのでしょうか。

 そうではありません。儒学者、林大学の頭との開国交渉の時も、ペリーが交易の話を持ち出すと、今回の交渉の眼目はその問題ではないはずですと林が反論して、それはそうですなと言って、ペリーはおとなしく引き下がっています。つまり日米貿易は、ペリーの要求の、第一目的ではなかったのです。

 この時のペリーの要求は三つです。

 ひとつは難破船の救助です。当時のアメリカは世界一の捕鯨大国で、大西洋の鯨を捕り尽くしてしまい、いなくなってしまったので、太平洋に鯨を捕りにきていたんです。そして日本の近海は、鯨の良好な漁場だったのですね。

 だからアメリカの捕鯨船は、日本の近海で嵐に遭って、難破して漂流することがたまにあった。ところが命からがら日本に漂着しても、日本人は異国人を鬼として畏れていて、助けるどころか石を投げたり、棒で打って殺してしまうと噂されていたわけです。今後はそういう野蛮なことはやめて、難破したアメリカの漁船員はきちんと救助して、看病してやって欲しいという要求です。これはまあ、当然ですね。

 それから二番目は、水、食料、燃料、薪の補給です。そういう捕鯨船、補給基地となる港を、日本に開いて欲しいということです。

 当時鯨を捕ると、全体を細かく刻んで、肉片をすべてロープに吊るして、その下で薪を焚いて炎であぶって、油をぽたぽた滲み出させて甲板で採集したんです。

 しかしこの薪を大量に捕鯨船に積んで漁場まで来るのは、スペース的に無駄です。日本で燃料の補給ができれば、船内を乗組員のためにもっと有効に活用できるので、薪は日本で補給したかったんです。

 飲料水、衣類洗濯のための水、あるいは船員たちの食材も同様です。これらを漁場近くの日本で積めるなら、大変合理的だったんです。


 しかし鯨を捕っているのだから、その肉を食べたらよかったのではないか。そういう疑問は生じますね。腕のよいコックが各船に乗っていたら、鯨の肉を使った、さまざまな肉料理のヴァリエーションが考えられるはずです。

 実はアメリカ人は、鯨の肉はいっさい食べなかったんです。鯨油を絞りとったら、肉はすべて海に捨てていたんですね。


 それではいったい何のために、アメリカ人は捕鯨をしていたのでしょうか。

 ただ油を取るためだけです。当時は、また石油が発見されていないんです。だからランプを燃やす灯油も、誠之館高校の資料館に遺されている、ペリーにもらった天球儀の回転部分に注す潤滑油も、すべて鯨から取った鯨油だったんです。

 だから捕鯨という産業は、現在でいうと石油産業だったわけですね。日本の近海は、油田だったんです。鯨は泳ぐ油田、アメリカ人は、海中から石油を掘り出していたようなものなんです。当時はまだ、鯨以外の場所に、オイルを発見できていなかったんです。

 アメリカ人は鮭を獲っても、最近までイクラはすべて捨てていました。日本人が食べると知って、捨てなくなったそうですが、それと似ていますね。


 要求の三つ目は何でしょうか。長崎以外の港の開港です。

 水、食料、薪、これらは補給してもよいが、長崎の出島でのみ行うといわれては困ります。鯨が多くいるのは小笠原とか、東北方向だったわけです。

 交渉にあたった林大学の頭は、幕府の命を受けて鎖国の維持に全力で頑張りますが、受け入れられなければ戦争も辞さないというペリーの態度を見て、結局伊豆の下田、北海道の函館という二港の開港を決めます。

 日本以外の、植民地化されたアジアの惨状を、幕府はよく知っておりましたから、この事実は林には、威圧として働いたでしょう。長い間アジアの盟主として君臨した中国、清も、今やイギリスとのアヘン戦争で手もなく敗戦して、香港を取られ、莫大な賠償金まで支払わされて青息吐息でした。その上に、押し寄せるハイエナのような欧州列強の餌食に、今まさになろうとしていたんです。今戦争をしては、近代火器の差で、日本も同じ運命だと知っていたからです。

 世界情勢に関する情報は、阿部正弘のもとにはおおよそすべて入っていました。ペリーの著した『日本遠征記』には、日本人がパナマ運河の計画まで知っていたと、驚いて書かれています。アヘン戦争の顛末も、これは近所のことだから正確に情報が入っていました。

 阿部たちとしては、植民地化を回避することと、アヘンを国内に入れられることは、絶対に避けなくてはならないという固い決意がありました。これを強要されるなら、命を捨てて戦争をするほかない、という悲壮な決意を固めていたわけです。

 しかし港をいくつか開くだけで、交易をしないならば、開国したことにはならない、と幕府は考えたふしがあります。だから日米和親条約締結のこの時点では、まだ幕府は開国したつもりはありませんでした。

 正式に開国して多くの港を開いて、貿易まで始めたら、多くの悪人や麻薬、それにキリスト教と宣教師が大勢国内に入ってきて、鎖国直前のポルトガルのように、政府転覆の謀反を計画される危険もある、宣教師の多くは、実のところスパイとしての活動もしていました。国産の武器が遅れている今、そういうものをすべて防ぎきるのは大変だ、と幕府は考えていたわけです。


 欧米の軍事力は、日本のものと大きな差がついていて、戦争になれば、日本が勝てる見込みはありませんでした。幕府は軍事政権ですから、兵器の破壊能力に関しては、よく理解洞察していました。

 だから、最初にやってきた国が中級国家のアメリカでよかったといえます。これが帝国主義のイギリス、フランスあたりだったら、あるいはインドやオーストラリア、マレーシアに対するような高飛車な態度を、日本に対しても取らなかったとは言えない。アメリカは独立戦争をしたばかりで、自国が植民地を作ることに若干の戸惑いがあったし、日本をよく勉強していて、謙虚な姿勢で接してきたといえます。

 幕末当時の江戸幕府の軍備は、関ヶ原の合戦の頃から大きく進歩してはいませんでした。まず大砲は、欧米のものは、日本の大砲に較べて飛距離が四倍もあった。ということはアメリカの艦隊は、日本の大砲の弾が届かない安全地帯から、いくらでも撃ってこられるということです。

 加えて日本の大砲の弾は、文字通りの鉄の球です。一方アメリカのアームストロング砲などは、弾丸自体が破裂する仕掛けになっていて、小型のミサイルのようなものだったわけです。

 当時、長崎に高島秋帆という砲術研究家がいて、私財でオランダから大砲を買い入れて、独自に研究を続けていました。彼は江戸に出て、武蔵徳丸原というところで、洋式砲術調練までやって、つまり試射をやって、あまりの威力に違いに強い危機感を持って、洋式の火器や砲術の取り入れの必要性を、「天保上書」という書状にしたためて、幕府に提出していたんです。兵制改革の示唆です。この徳丸原が、今の高島平です。高島にちなんでつけられた地名です。

 しかしいつの世もお役人というのは現状維持の保身発想で、高島は前例を破った、世を騒がせたということで、逮捕投獄された挙げ句に、国もとで蟄居を命じられていたわけです。黒船の来航という現実自体が前例を破っているのですが。

 第一回の黒船の来航後、阿部は彼の罪を特に許し、そばに呼んで彼の意見具申を熱心に聞いています。この時秋帆は大変に喜んで、名前を喜平に改めています。

 高島は阿部に、たった今は彼我の力の差がありすぎるので、今後四、五年の間は絶対に闘ってはならない。時間を稼いで、その間に西洋から大砲を中心に各種火器を購入して、これを用いた徹底鍛錬を為すべきだと懸命に訴えています。


 黒船が日本に来るということは、情報として、あらかじめ幕府に入っていたでしょうか。

 これは入っていました。鎖国を始める際に、開国していると同等の国際情勢の報告を自分たちが入れるとオランダは確約していましたので、これを守ってオランダは、毎年「オランダ風説書」や「別段風説書」と称して、国際情勢の報告を幕府に入れていました。

 インドや中国に対してイギリスが行った仕打ち、アジアの植民地の状況。アヘン戦争の顛末、英、仏、トルコ、ロシアの動きや、アメリカが日本を開国させようと画策していること、英、仏、露も同様に日本に接近を考えていること、などなどです。

 これらの国の中で、日本に領土的な野心を持っていたのはロシアです。ロシアは内陸部でない、外洋に向かって開いた不凍港を切実に必要としていました。これがのちの日露戦争につながります。

 米軍艦がいよいよ日本に向かうという段になって、来航の一年前にオランダは、「別段風説書」を幕府に送って、やって来る船の名前、装備、隻数の予想までを、細かく書き送っています。

 この時に、十隻も来ると書いていたようですが、実際に来たのは四隻でした。このいきさつは、のちにペリー自身も『日本遠征記』に書いていますが、アメリカの東海岸、ノーフォークの港から、計画では自分がミシシッピ号に乗って、プリンストン号という船を連れて、二隻で中国に向かう手はずだったのですが、プリンストン号は故障していたのですね。それで、ミシシッピ号一隻で向かうことになりました。


 一隻となると、かなりオランダの予想とは違っていますが、アメリカ出航の時点から船団を組もうとは、ペリーも考えていませんでした。アメリカ軍の艦船は、当時はまだ総数でも四十隻程度で、それらが南アメリカ、欧州、アジアなど、世界中に散っていたわけです。十隻集めるのは容易ではありません。

 予定では、アメリカのノーフォークからは二隻で発ち、中国の港で十隻程度集めて、十二隻の艦隊にしようかと考えていたのですね。述べたように、過去一隻二隻で江戸湾に入って通商を求めて、何度も断られています。相当な数の船団でないと脅しがきかないと考えていたわけです。十二隻なら、そしてこれらがいっせいに祝砲を撃ってみせれば、日本もさすがに威圧を感じて、こちらの要求に折れるだろうという計算です。アメリカ伝統の砲艦外交、恫喝外交ですね。

 しかし予定していたプリンストン号は機械部分が故障、それで替わりにポーハタンという船を連れていこうとしたんです。ところがこの船は、西インド諸島から帰ってきたばかりで、出航準備に時間がかかってしまい、なかなか出発ができない。それでペリーが痺れをきらして、一隻で行くことを決断したんです。

 アメリカからなら、西海岸の港から出航して、太平洋を使った方が早いのですが、当時アメリカの西海岸はまだ未開拓で、港が未整備だったのですね。ろくな港がなかった。ということは、そこまでろくな連絡網が陸になかった。だから大西洋を進んで、アフリカ南端の喜望峰を廻って、アジア伝いに日本に来ています。これではヨーロッパの国々と同じルートですから、大西洋がある分だけアメリカは遅れます。

 このことは、実は大変重要なんですね。当時、アメリカからアジア、とりわけ中国への太平洋航路は、まだ拓かれていなかったんです。アメリカから中国に行こうとするなら、大西洋からぐるりと廻るほかはなかった。しかしアメリカからなら、大西洋から廻るより、太平洋廻りの方が近いわけです。太平洋航路を取れば、アメリカは中国に対して、ヨーロッパより有利なんです。

 だからアメリカはこの時、太平洋航路を是非とも完成させようとしていた。そしてこれを完成させるためには、どうしても日本という中継地点に港が必要なんです。この明白な事実が、ちょっと歴史家の視線から抜け落ちているように思います。ペリーが日本に対して主張した、捕鯨船の水、食料、薪の補給基地、そして難破船の救助要求ということ、これをそのまま信じてしまっています。

 もちろんこれもありましたが、それ以上の重大事がアメリカにはあったのですね。中国大陸の利権ということです。これがのちのち、日露戦争を経て、ついに日米戦争に発展してしまいます。


 大西洋廻りの航海中、ペリーはナポレオンが流されたセントヘレナ島に立ち寄って、彼が暮らしていた家を見たり、ケープタウンで、幽閉されていたアフリカの部族の酋長と会ったり、一隻なので、かなりの冒険旅行をして、香港を目指しています。当時の香港はアヘン戦争でイギリスが獲っていたので、自由に入港ができました。

 それから次に上海に行って、ここで「別段風説書」に見えるような、十隻の大船団を組織して、江戸湾に向かうつもりだったのです。ところが、無線がない時代のことで、連絡がうまくつかず、十隻も集まらなかったのですね。そこで仕方なく、ミシシッピ、サラトガ、プリマス、サスケハナの四隻で上海を出航して、琉球を経由して、日本に向かうことになったんです。

 たった四隻では威圧効果のほどは疑問と、ペリー提督は考えていました。しかし集まらなかったものは仕方がないですから。だからこの時のペリー提督の心中には、大きな不安があったと思われます。

 上海でペリーは、ミシシッピからサスケハナに乗り換えます。そしてサスケハナを船団の旗艦としました。ミシシッピ、サスケハナが蒸気軍艦で、中でもサスケハナが一番大きかったからです。サラトガ、プリマスは帆船です。


 このように計画通りに行っていないことが、実はアメリカ側にも多々あります。出発地点のノーフォークから、プリンストン号、ポーハタン号を連れていけなかったこともそうですが、その後の中国においても、なにしろ無線がない時代ですから。集合地に行ってみないと様子が解らないわけです。

 後世のわれわれは、アメリカの方は計画通り、完璧に作戦を遂行したと考えがちですが、むしろ日本側の全権の方がうまくやっているかもしれません。アメリカは不手際の連続なんです。

 江戸湾に入ってからも、計画が狂ったことがあります。アメリカの姿勢は砲艦外交、武器で脅して開国と開港を迫るというのが基本です。しかし同時にアメと鞭で、たくさんの珍しい、貴重な、あるいは進んだ贈答品を用意して、これを与えて懐柔するという作戦でもいたんです。この贈り物を満載して江戸湾に向かった船が、ヴァーモント号というもう一隻別の船だったんです。

 ところがこの船が、予定通りに江戸湾に姿を現さなかったんですね。それで予定を変更して、一年後に開国か否かの答えを聞きに戻ると言いおいて、江戸湾を出ることにしたのですが、ペリーとしては、そうするほかなかったんですね。

 これは当初の予定とは少し違います。贈り物がないんじゃまずいなということで、ペリーは急遽仕切り直しすることにしたんです。またいったん退いて、当初の予定通りに十隻程度軍艦を集めて戻り、きちんと威圧しようという思いもありました。だからそういう予告も日本側に残しています。そして戻ってきた時には、事実七隻の艦隊を組織していました。これも七隻しか集まらなかったんですね。

 仕切り直しということで、ではさようならと言って江戸湾を出ようとしたら、急に風がぱったりやんで、帆船のサラトガとプリマスはびくとも動けなくなってしまった。陸には、ものすごい数の日本人が、びっしり並んで見物しているんです。そこで蒸気船のサスケハナがサラトガを、ミシシッピがプリマスを曳航して去っています。かなり汗をかいているようなところがあります。


『異文化の交流 武士、庶民と米兵たち 用意周到なペリー』

 異文化との初の接近遭遇ですから、ユーモラスな要素は、実はたくさんあります。後世のわれわれが理解しているようなものとは、実態はかなり違っています。

 たとえば最初に黒船に相対したのは浦賀奉行所の香山栄左衛門というお役人ですが、彼による最初の折衝は、長崎に廻られよ、それがわが国の祖法だ、と香山が言い、いやわれわれはどこへも廻るつもりはない、ここで折衝を行う、拒否するなら江戸に向かう、といった押し問答ですね。言われるような固い調子です。しかしそれが、だんだんにうち解けてくるんです。

 船上で出されるシャンパンとか葡萄酒、料理が香山の舌に合ってしまって、香山はアメリカ人たちに次第に友情を感じてくるんです。それはこの時のアメリカ人が、徹底して日本を研究していて、充分な敬意をもってきちんと文明国に対する対応をした。欧州型の、帝国主義見下し外交ではなかったということです。

 日本に妻子がいて、日本人をよく知るシーボルトが、ドイツからペリーに宛てて、さまざまなアドヴァイスを書き送っています。日本人は人懐こいが、威圧すれば命を捨てて対抗して来る。そうなれば彼らは勇敢だと言っています。この助言や、日本に関する彼の著作の影響がアメリカ人にあります。

 アメリカ側が事前に調べ上げて用意した日本資料も出版されていますが、日本に対する敬意が充分に感じられるものです。それまでに日本に上陸したり、暮らした西洋人はたくさんいましたから。日本民族は、アジアでは突出した能力を持つという評価も書かれています。他のアジア人とは違うという特別意識を、ペリー側は持っていたようです。今日の視線からは、日本に対してある種のユートピア意識、憧れさえ、抱いているように見えます。

 うち解けてからは、香山栄左衛門は小舟に乗って、足しげく旗艦のサスケハナに来るようになります。出される葡萄酒やシャンパンをうまそうに飲んで、供される料理も、喜んで食べるようになるんです。洋食が舌に合ってしまった。

 われわれはいったん去ると黒船側が言うと、香山はくつろいでしまってなかなか腰を上げようとせず、「自分はアメリカ人を敬愛しております」と告白してから、「いやあお別れとなると、涙を禁じ得ませんな」などと言うんですね。

 そして葡萄酒をワンケースもらって小舟に帰ると、さっそくケースを開けて葡萄酒を一本抜き出して、乾杯して見せながら去っていくんですね。黒船側は彼のこの様子を、彼はわれわれの健康を祈ってくれたのだろう、と書いています。

 今のわれわれと様子が変わりませんね。そういうことが、ペリーの『日本遠征記』には書かれています。


 しかしこういう席には、ペリー提督はまだいっさい出てこないんです。艦長室に引きこもったままです。事前の徹底研究によって、総司令官が軽々しく姿を見せると、日本人は軽く見てしまってよいことはない。いよいよという時まで姿を見せずにいると、日本人は強い威圧と威厳を感じ、畏れいってへりくだるから交渉はうまくいくと、そういうところまでペリーは日本人を把握してきています。ペリーは勉強家で、シーボルトの『日本』をはじめとして、四十冊にのぼる日本関連の本を読んで研究していたと言います。

 日本人はいかめしい肩書きに弱いということで、ペリーは自分の肩書きを、日本語の漢字で長々と作って用意してきてもいます。読むと十秒もかかるような長い肩書きです。こういうものを聞くと、日本人はははーっとなるんです。

 浜辺は、黒船見物の町民でごった返していて、見物禁止令が出ていたのですが、おかまいなく集まってきて、こういう人出を当て込んで、お金を取って遠眼鏡の貸し出しをして、ひと儲けした町民も出たらしい。機を見るに敏な商魂です。

 あるいは黒船の水兵たちは、ボートを出して、江戸湾の水深調査とか、川に入って少し溯ってみたりとか、そういう沿岸の調査をするんですが、そうしたら川べりに日本人が来て鈴なりになっていて、農民たちはみんな、手に手に大根とか、野菜を持って集まってくれていて、手渡しでプレゼントしてくれたようです。水兵たちは、お返しに煙草をあげたらしい。

 黒船側、日本人はみんな人懐こい性格で、親切だと書いています。そして日本の風景は、信じがたいほどに美しいと言っていますね。

 もうひとつ面白いことがあって、日本列島の南、小笠原諸島の一島、ピール島に、白人が暮らしていたと『遠征記』に書かれています。

 小笠原諸島を彼らはポニン諸島と呼んでいます。ピール島は父島と考えられています。アメリカ人、イギリス人、デンマーク人、ジェノヴァ人などが、ハワイ諸島の原住民を何人か引き連れて移り住んでいて、サツマイモやサトウキビを作って暮らしていたと言います。


 それからこれは、二度目の来航をして、日米和親条約の調印が決まったのちですが、贈り物を日本側に手渡してから、ペリーは遅れて合流したポーハタン号の船上に幕臣たちを招いて、一大祝賀パーティを催すんですね。アメと鞭のアメの方、接待外交ですね。

 この宴には牛肉、羊肉、野菜、果物、パン、バター、さまざまなデザートに、シャンパン、マディラ酒、パンチなど、艦に積まれたあらゆる種類の自慢の酒や、コックが腕を振るったさまざまな料理が出されるんです。日本人の舌に、これらは大いにあったらしくて、侍たちは大変に喜んだらしい。この時からは、もうペリー提督も参加しています。

 ペリーは一メートル九十五もある巨漢で、しかも大声でしゃべるので、日本人はかなりの威圧感を感じたようです。現在のアメリカ大統領、ドナルド・トランプ氏と同身長です。

 格別マラスキーノ酒という酒が侍たちの大のお気に入りで、みな大いに飲んで盛り上がったらしい。条約締結時の交渉役を果たした林大学の頭だけが最後まで素面で、冷静だったらしいですが。

 それから、白人の水兵が顔を黒く塗って黒人音楽を奏でて踊るというショーを見て、水兵がおどけるので、日本の侍たちも爆笑していたと言います。この時はさすがのむっつりした林大学の頭も、笑いの渦に加わっていたということです。

 それからペリーは、デザートのケーキを用意して、これをカットして各藩士に配る際に、おのおのの藩の家紋を逐一調べ上げていて、これを描いた小さい旗を用意して、ケーキにそれぞれ立てて配った。これに侍たちは大感激したようです。

 食事を終えると、侍たちは懐から万能使用の和紙を出してきて、これに食べ残した食事を包み始めるんです。侍たちはこの和紙を、手紙を書くのに使ったり、汗や汚れをぬぐうのに使ったり、鼻をかんだり、あらゆることに用いていた。食事のあとは、食べ残しを包んで家人のお土産に持って帰るのだけれど、肉も野菜もデザートも、一緒くたにくるんで袖に入れるので、ペリーはそれを見て、自分ならあれを食べるのはごめんだと、『遠征記』に書いています。

 侍たちにとっては、出された料理を持ち帰るのは当時の武家社会の礼儀なので、アメリカ人たちにもしきりに持ち帰りを進めて、みなに閉口されたようです。

 あるいは食事の席にバターが出されて、日本人はバターを見たことがないので、鬢付け油かと勘違いして髪に塗る侍もいて、アメリカ人はこれを見て仰天したようですね。

 またシャンパンやマラスキーノ酒は舌にあったけれど、ウィスキーやブランデーは飲めなくて、砂糖を入れて飲む者がいたようです。

 パーティがお開きになって、侍たちは下船という運びになり、そうしたら松崎満太郎という侍が泥酔して、アメリカ人たちとこんなにも懇意になれたことに感激して、ふらふらペリーのもとにやってきて、「アメリカと日本、心はひとつです」と日本語で言って、ペリーに抱きついてきた、ということをペリーは書いています。

 きつく抱きついて、まだ新しいペリーの軍服の肩の飾りをつぶすので、ペリーは閉口したらしい。

 しかも松崎満太郎は、感激のあまり涙ぐんでしまい、酔っぱらいの特徴で、泣きながら同じことを何度も何度も繰り返すので、かなりまいったようです。


 アメリカ側が幕府に贈った贈り物に、どんなものがあったかといいますと。これはさすがにレディーファーストのお国柄なので、ご婦人にもプレゼントをたくさん用意してきています。男性の高官たちのことばかりを考えてはいなかった。

 この時の徳川の将軍は家定で、奥方は高名な篤姫です。アメリカは篤姫に、当時日本人はまだ誰も見たことがなかったであろう、全身が映る大型の姿見、つまり鏡を用意してきています。

 老中首座、今で言うと総理大臣ですが、阿部正弘の奥方には、石鹸や香水を送ったようです。正弘自身には、最新型のコルト・リヴォルヴァー、連射可能のピストルを、プレゼントしました。

 阿部正弘に対しては、そればかりではないですね。誠之館高校の資料館には、天球儀とか、メキシコとの戦争を描いたピクチャーカードなどが保存されていたと思います。横浜の開港資料館にもない貴重なこれらも、この時のアメリカからの贈り物と思われます。

 ペリーは日本人のために「彼理(ペルリ)」と漢字で書いた名刺も作ってきていたようです。これも、ここの記念館に残っていたらよかったのですが。

 アメリカ側、何よりの取っておきは、蒸気機関車の四分の一模型ですね。客車を引いて時速三十二キロで走れます。これを陸揚げして、横浜村応接所前の砂浜にレールを敷いて、実際に走らせて見せた。

 これに乗って走る侍たちの様子も、ペリーの『遠征記』にあります。客車の屋根におっかなびっくり跨って、怖さと好奇心で照れ笑いを浮かべ、袴の裾をパタパタはためかせながら、いつまでも屋根にしがみついて浜辺をぐるぐる廻っている侍たちは、なかなかの見ものであったと書いています。

 中には機関車に跨がる侍もいて、危ないからやめろといっても聞かず、案の定熱くなって飛びおり、砂の上を転がったりしたと言います。

 しかしこの蒸気機関車はのちに、勝海舟の海軍伝習所で火災に遭って、消失したようです。残念なことです。


 この時の様子は、当時の瓦版に書かれて大いに受けて、売れに売れたようですが、面白いのは英語についてで、庶民はアメリカ人の言葉に非常に興味を持っていた。しかし解説されている内容はまことにいい加減で、ギャグとしか思えないものが多いです。

「めでたい」ことを、アメリカ語では「きんぱ」と言う。アメリカ人は、めでたいことを聞くと、「きんぱ、きんぱ」と言って小躍りする、ともっともらしく書かれているのですが、これはいかなる英単語を「きんぱ」と聞き取ったものか、もう誰にも解りません。

 それから「嬉しい」ことは英語で「さんちょろ」と言う。これはたぶん「サンキュー」のことで、なんとか原型を留めています。「子供」は「ちゃあ」で、これも「チャイルド」の原形を若干留めています。

 しかし「悲しい」を「めっそ」とか、「道楽者」を「とろんこ」、「父親」を「あちゃさん」、「母親」を「かあとん」と言う、にいたっては、そりゃあ日本語だろうという感じ。

 さらには「ふんどし」を「ふくりんひ」と言う、にいたっては、アメリカに果たして「ふんどし」があったものかどうかも疑わしい。ほとんど落語の世界です。今も当時も、マスコミというのは売らんかなのいい加減であったということでしょう。


 幕府への献上品に戻りますが、モールス信号器。これは日本人に見せるために、ペリーはわざわざ発明者モールスのところまで行って、操作や原理の説明を受けていたらしいです。当時の日本の遠距離通信手段は飛脚しかないので、これにも相当に驚いて、電気とか、送信の原理の説明を受けてもさっぱり解らなかったようです。


 日本側はこれへの返答品として、絹織物や扇、硯箱、陶磁器、そして米を二百俵送ったようですが、わざわざ相撲取りを呼んで、これを黒船の中まで運ばせたようです。大男の相撲取りには、さすがのアメリカ兵たちも驚いて、腕や腹の筋肉をみんなで触っていたと言います。アメリカ人を跨がらせた米俵を、そのまま肩にかついで歩く力士もいた。

 ここで面白いことには、当時の相撲取りの中に、米俵を抱えたまま何度もトンボ返りができる驚くべき人物がいて、アメリカ人の前でこの芸をやって見せて、やんやの喝さいを浴びたようです。


 それからもうひとつ特筆もののエピソードがあります。ボタンですね。日本の侍は、米兵の軍服のボタンに非常に感心したようです。こんな簡単な仕組みに、自分らはどうして気づかなかったんだろうと言って、さかんに悔しがったり、いじったりしていたようです。

 長崎の民は知っていたと思われますが、江戸庶民がボタンというものを見たのは、どうやらこの時がはじめてだったと思われます。



             

日本の印象 


『日本の印象』

 当時の日本人の印象は、外国人にとってはどうだったでしょう。格別女性の印象は、どうだったのでしょうか。

 ペリーが横浜や下田に上陸した時は、女性は姿を隠して、なかなか外国人の前には出てこなかったようです。容姿のよい人ほど危険を感じていたらしいし、ペリーたちが横浜村を歩くと、見物人が大勢群れたり、あとをついてきたりしたのだけれど、日本のお役人がこまめに野次馬、特に女性を追い払うので、日本人が観察できない、もう追わないでほしいとアメリカ側が申し入れています。

『日本遠征記』には、しきりに日本の自然の美しさとか、花の美しさの描写が出てきますが、女性に関してはそれほどないのは、そういう理由かと思います。

 ペリーの一行は、横浜村の村長の、徳右衛門の家を訪れますが、この時に彼の妻と娘が出てきて、お茶を出してもてなしてくれたのですが、女性たちは終始微笑んで、しかもずっとひざまずいていたので、その格好で疲れないかと心配しています。

 彼女たちは裸足で、着ぶくれもあってずんぐりした印象だったけれど、好印象だったらしいです。ほかの場所で遭遇した若い女性について、ほっそりした体つきで、外貌になかなか魅力があると書いている場所もあります。

 この時ではないですが、オランダ人の記録の中に、宿泊所に来る日本の遊女たちが大変に魅力的で、オランダ人たちを大いに魅了したと書かれているものがあります。日本の女性は、江戸初期から魅力があったのだと思います。

 ただアメリカ人たちが、おぞましいと言って、嫌悪感をあらわにしている女性の風習があって、それは既婚女性の「お歯黒」ですね。これは本当に嫌だったらしくて、筆をきわめて批判を書いています。

 横浜村の村長の夫人も娘も、これをしていたのですが、『日本遠征記』の中のこの時の描写を引用すると、

「ルビー色の唇が開くと、ひどく腐食した歯茎に、黒い歯が並んでいるのが見えた。歯を黒く染めるのは、もっぱら日本の既婚女性の特権であり、鉄の粉と酒などを含んだお歯黒、または鉄漿(かね)と呼ばれるおぞましい混合物による。

 この混合物は、その成分から推測できるように、快い香りもしないし、さほど衛生的でもない。きわめて腐食性が強いので、歯に塗る時は、歯茎や唇のような柔らかい組織は、何かで保護する必要がある。何故ならこの不快な混合物が少しでも触れると、肉はたちまち炎症を起こし、紫色の壊疽状の斑点になるからである。細心の注意を払っても、歯茎は腐って赤味と生気を失ってしまう。

 この習慣は、夫婦の幸せには何の役にも立たないと思うし、当然ながら恋人時代の恍惚のうちに、接吻をし尽してしまわなければならないだろう」

 という調子。それから唇に塗る紅についても書いていて、

「唇を赤くすると、黒い歯茎と歯とのコントラストが、さらに際立つ。ベニと呼ばれる日本の化粧品の口紅は、紅花で作られ、陶器のカップの中で調合される。唇に薄く塗ると鮮やかな赤色になるが、厚く塗ると暗紫色になり、この色が最も珍重される」

 とあります。村長の妻と娘に関する描写ですが、

「二人のレディは常に丁重で、中国の首振り人形のように、絶えず頭を下げていた。彼女らは根気よく笑みを浮かべて客に挨拶していたが、唇を動かすたびにぞっとするような黒い歯と腐った歯茎がのぞくので、笑わない方がよかったかもしれない」

 こんな調子で、アメリカ人は、日本女性のお歯黒がよほど気持ちが悪かったようです。


 日本の男性に関してはどうでしょう。

 これは以前に、オランダ人たちと出島で暮らしたことのあるドイツ人の医官、エンゲルベルト・ケンぺルという人物が、日本人男性に関しての詳細な記述を残しています。

 これは日本訪問の前に、ペリーたちが用意した日本史料にあるのですが、読むと、意外なほどによい描写ですね。今日われわれが一般的に抱く卑屈さとは、かなり違っています。描写を引用すると、

「日本人には、モンゴル族の特徴が多く見られる。それに加えて、ヨーロッパ系の民族に似ているところがある。目は漢人のように、頭蓋の奥まで陥没してはいない。ヨーロッパ人ほどの肉体的頑健さはないが、しっかりとした強靭さがあり、力強い手足を持っている。

 彼らの目はモンゴル族の特徴を強く示し、丸くはなく、楕円形で小さめである。髪は濃い黒色で、艶がある。鼻は平たくはないが、小さくて低い。肌の色は黄色味がかっている。

 総じて言えば、日本人は漢人よりも強靭で、勇敢な民族である。西洋人の衣装を着せれば、ポルトガル人、あるいはシシリアンのような、南部イタリア人といっても通りそうな人々がいる地方もある。

 上流階級や由緒ある家の出身者の多くは背が高く均整がとれていて、顔つきもアジア的と言うよりも、むしろヨーロッパ的と言った方がよさそうだ」

 こういう印象で、決して悪くないです。中国人の性質を、臆病で小ずるいと悪く言っているのですが、これは当時のことで、大なり小なりアヘンの影響があるのではと思います。


 さらにここに、ペリーたちが日本に対して、今日の視線からすると異常に思えるほど他のアジアに対するのと違う、敬意ある対処をした理由として、アーロン・パーマーというニューヨークの法律家が、一八四九年にクレイトン国務長官に提出した「対日戦争計画書」というものがあります。これがやがてペリーの日本来訪と開国要請になるのですが、これは、日本を憎んで書かれているのではなくて、硬い牡蠣の殻から日本を引っ張り出すには、戦争の覚悟がいるという意味なんですね。

 これが日本に対しては、驚くほどに敬意に満ちた内容なんです。ちょっとご紹介しますと、

 エネルギッシュな民族で、新しいものに同化する能力はアジア的というよりも、むしろヨーロッパ的とも言える。

 西洋諸国の芸術や新技術に対する好奇心が極めて高い。

 名誉を重んじる騎士道のセンスを持っており、これは他のアジア諸国とまったく異なる。

 アジア諸国に見られる意地汚いへつらいの傾向とは一線を画し、彼らの行動規範は男らしい名誉と信義を基本としている。

 盗難や経済犯罪は極めて少ない。

 同質な民族による独立を二千五百年間も維持し、同一の言語、宗教を持っている。

 支那に隷属することもなく、外国に侵略されたり、植民地化されたことがない。

 そしてパーマーは、「日本は東洋におけるイギリスとなるであろう」とまで言い切っています。付き合いのなかった民族の性質や美点を、よくここまで理解したと思い、不思議な気がします。おそらくは、シーボルトの日本に関する著作などの影響と思われます。

 ですから日本が高飛車な対応をまぬがれたのは、シーボルトの抱いていた日本人への敬意のおかげともいえます。あるいは彼にそう思わせた、当時の日本人の功績ともいえます。日本に対する一種のユートピア史観さえ、ここに見て取れます。


 それからペリーたちが、日本の大工の技量について書いている部分は特筆ものです。

「木工建造物に見られる大工の熟練の技量、たとえば接合の正確な調整と滑らかな仕上げ、整然とした床張り、窓、引き戸、障子などのきちんとした取りつけと滑りのよさは、すべてアメリカ人の賞賛の的だった。

 家屋や公共の建物の全体的な設計は、建築の細部のできばえに較べて非常に劣っていた。建物全体の設計は画一的で、昔の様式にならっているものらしく、疑いなく政府が定めた規格内に創造の才が制限されていることを示しているが、細部の仕上げには、経験の蓄積によってこそ得られる完璧さが現れていた」

 日本人の職人芸と創造性の兼ね合いについて、よく観察し、正当な評価をしています。しかし日本製のカミソリはひどかったらしくて、

「艦隊乗り組みの理髪師の判定によれば、函館で買ったカミソリは実にひどいもので、切れもしないし、切れるようにすることもできなかった」

 と書かれています。こういう製品の立ち遅れは、日本はまだひどいものだったようですね。

 それから、アメリカに連れていって欲しいと言って、吉田松陰たち二人の侍が黒船に乗り込んでくる事件は有名ですが、その前に二人は、横浜の道でこっそりペリーたちについて歩いているんですね。その時の様子も書かれています。

 ペリーは連れていけないと言って断るんですが、彼らが処罰されないようにと配慮しています。本来は斬首ものの違法なのですが、正弘はこれを受けて、彼らを許しています。



ペリーと阿部正弘

 マシュー・ガルブレイス・ペリーは、一七九四年四月十日、ロードアイランド州ニューポートに、海軍大佐の三男に生まれています。海軍エリート軍人の一家で、兄たちに続いて十四歳で海軍士官候補生、その後は海軍の主要ポストを進んで、一八三七年に、初の蒸気軍艦フルトン号の艦長となり、蒸気軍艦の父と呼ばれることになります。

 米英戦争、メキシコとの戦争に参加、ミシシッピ号の艦長兼副司令として、メキシコ湾上陸作戦を指揮しています。このミシシッピ号というのは、のちの日本訪問で、ノーフォークから上海まで乗ってきた船です。

 ペリーは日本遠征に以前から強い関心を持っていて、フィルモア大統領と、グレアム海軍長官の信任を得て、五十八歳で東インド艦隊司令長官に就任、これは異例で、通常ならもう地上勤務に移っている歳です。江戸湾を訪れた際、彼は五十九歳でした。当時の感覚では高齢で、最後の大仕事、という意識であったと思われます。

 彼は植物のコレクターという趣味も持っていて、長い鎖国をして、雑種交配が少ないであろう日本の植物に、新種発見の期待も抱いていたようです。

 これも、黒船来航の隠れた理由なのですね。かつてヨーロッパに日本から椿の花がもたらされたように、珍しい魅力的な植物を日本で見出して、アメリカに持ち帰りたいという思いが、ペリーにはありました。新興国家アメリカには、当時あまり魅力的な植物が、国土になかったのですね。西海岸に暮らしてみると、こういう切実な思いがよく解ります。

 彼は、日本を開国させることに以前から強い情熱を燃やしていて、「最も古い国の扉を開いて世界の仲間入りをさせる役割は、最も若い国の代表たる自分が担う」と書いています。


 彼はグログ酒と呼ばれる強い蒸留酒を愛飲していて、この強い酒がどうやらアルコール使用障害に発展して、晩年の彼を苦しめることになったようです。

 彼は夕食がすむといったん床について眠り、午前一時頃に目を覚まして、愛用のパイプをくゆらせながら、航海日誌や、手記の口述を始める、という習慣を持っていたようです。彼の筆記者は、ちょっと大変だったかもしれません。

 ペリー提督は、身長一メートル九十五の堂々たる巨漢で、怒ればドスのきいた声で周囲に悪態をつき、部下にも常に大声で命令を発したので、水兵たちは雷親父と恐れていたらしいです。鬘を用いていた、という証言もあります。

 ただ痛風とリュウマチの持病があり、終始関節痛に悩まされていたようで、日本を開国させる大役を果たすと、急速に体調不良を訴えて、母国に帰還を求めています。

 許されて帰国し、一八五六年に『日本遠征記』を出版し、今日の日本円で数億円という高額の報酬を受け取ってから、一八五八年三月四日にニューヨークであっけなく没しています。

 こじらせた風邪がもとだったということで、体力も落ちていたと思われます。享年六十三、「日米和親条約」締結からわずかに四年後です。日本開国に、生命力を使い果たしたという人生ですね。


 一方、ペリーに対した日本の老中首座、阿部正弘ですが、彼とペリーとは、実は多くの共通項があります。格別死亡の時期は不思議です。ほぼ同時期に死んでいるんですね。

 それからもうひとつ、阿部正弘にも持病があって、ペリーとの開国交渉の時期、阿部もまた、強い体調不良に悩まされていました。

 阿部の病名は、昔のことですから正確なところは不明ですが、小太りだった体が、晩年急激に?せ細ったことなどから見て、腎臓か肝臓に癌があったのではと推察されています。

 そして彼もまた、「日米和親条約」締結という大仕事をなし終えてから、急激な体調悪化で自宅静養に入り、一八五七年六月十七日、グレゴリオ暦では八月六日に江戸で死亡しています。

「日米和親条約締結」の三年後で、ペリーより七ヶ月早い死ですが、ほぼ同時期で、大変興味深い暗合です。

 ペリーと阿部正弘、ともに日本の開国という大仕事のために生まれてきた二人、という感じがしますね。


 しかし阿部とペリーは、年齢はかなり違います。開国交渉時、ペリーは五十九歳、阿部は若干三十五歳です。

 しかし、阿部もまたエリートの家系です。生まれついてのエリート政治家ですが、武士ですから軍人ということです。マシュー・ペリーとよく似た境遇です。

 第五代福山藩主、阿部正精(まさきよ)の五男として、一八一九年十二月三日に江戸西の丸屋敷で生まれました。これは老中官邸で、現在の二重橋前広場あたりにありました。母は高野具美子(ルビ、くみこ)、正精の正妻ではなく、側室でした。

 一八二六年に正精が没して、長男の正寧(ルビ、まさやす)が家督を継ぐと、正弘は本郷西片の中屋敷に移ります。中屋敷とは、下屋敷という呼び名もそうですが、上屋敷の控えの屋敷です。本郷の中屋敷は別名、丸山屋敷ともいい、この屋敷跡には現在文京誠之小学校とか、阿部公園(西片公園)など、往事の名残が残っています。

 明治時代には、中屋敷跡は丸山福山町と呼ばれていました。阿部の福山藩にちなんだ地名です。丸山屋敷のあった高台の崖下、西片一の一七の一七あたりに、明治時代の女流の文豪、樋口一葉が住んでいます。彼女は没するまでの二年半を、ここで暮らしました。阿部の屋敷から流れて来るわき水で、住まいのそばに池ができていて、一葉はこの池にちなんで自分の日記を「水の上」と命名しています。

 しかし正寧は病弱であったために、十年後の一八三六年に正弘に家督を譲って隠居します。正弘はこれで正式に福山藩主となります。しかし正弘は、この時まだわずかに十八歳です。

 しかし皮肉なもので、病弱だった正寧は、明治の世、六十二歳まで生き延びます。代わって激動の日本の舵取りをになわされた正弘は、激務ゆえに三十九歳で死去します。

 ともあれ阿部正弘は、第七代福山藩主として一八三六年に、生涯ただ一度のお国入りとして、福山に戻ってきています。

 その翌年には奏者番、これは江戸城中における武家の礼式を管理する役職ですが、これに就き、その翌々年には寺社奉行見習い、継いで寺社奉行に就任、これは寺社の領地、建物、僧侶、神官の管理を担当する武家の役職です。

 天保十四年、一八四三年には正弘は、二十五歳の若さで老中になり、登城の便のため、現在の千代田区大手町、辰の口の上屋敷に移ります。和田倉門のそばのお堀端で、現在の東京銀行協会ビルや丸ビルがあるあたり、地下鉄、都営三田線の大手町駅あたりです。

 そうしたら翌年、江戸城本丸焼失という大事件が起り、この処理に追われます。ただちの再建は財政的にむずかしいので、本丸に代わり得るものとして西の丸を考え、造営を指揮します。

 一八四五年には、二十七歳の若さで老中首座に就任します。エリート政治家らしいとんとん拍子の出世ですが、彼のほかに有能な人材が城内に見当たらなかったこともあります。西の丸造営の功績で、阿部家には一万石が加増されますが、正弘はこの一万石を、のちに新設する藩校「誠之館」建設にすべて注ぎ込みます。

 しかし幕末のこの時期は、中国のアヘン戦争の災禍、たび重なる異国船の日本来訪など、内外の情勢が風雲急を告げている激動期で、新老中首座は、その対応に日夜追われ続けることになります。国内にも、難問が山積していました。

 首座就任のこの年、まずオランダが開国勧告を言ってきます。この勧告はこの年のものがすでに二度目でした。しかし祖法遵守の空気が幕閣内に根強く、これは現状維持に逃げる事なかれ発想でもあったのですが、到底勧告を入れられるような空気は、城内になかったわけです。祖法を破れば不敬罪、切腹ものの重罪という認識が一般的でした。

 就任の翌年、一八四六年には、すでに述べた通り、アメリカ東インド艦隊、ジェームス・ビドル艦長のコロンバス号とヴィンセンス号が通商を求めて江戸湾内、浦賀に来航しますが、鎖国維持を理由に、正弘はこれを拒絶します。

 しかしそれから七年の年がすぎた嘉永六年、一八五三年、欧亜の端境では南下政策のロシアと、対する英・仏・トルコのクリミア戦争が起り、欧州列強は蠕動を続けて、ついにアメリカの蒸気船四隻が浦賀に現れて、開国を求める段階に入ります。

 そして来年返事を聞きに戻ると言いおいて、ペリーは江戸湾を出て行きますが、実はその直後には、ロシアのプチャーチンも、通商を求めて長崎に現れています。日本はいよいよ、もう待ったがきかない緊急事態に陥ったわけです。開国か、さもなくば戦争です。


 この直後から、病身を押した阿部正弘の八面六臂の活躍が始まるわけです。世界を相手にできる有能な人材育成のために、備後福山藩の藩校「弘道館」を「誠之館」と改名し、従来の世襲常識を廃した、実力主義の教育を開始します。

 これは当時としてはとてつもない非常識で、乱心にも匹敵する異常発想で、家老の子が家老になれなければ、父の忠誠心の離反にもつながると家臣は命がけの猛反対をしますが、正弘は敢然として押し切ります。したたかな世界の列強を相手にするには、生ぬるい世襲だの身分制だの言ってはいられない、突出した能力が要ります。この一点を見ても、阿部正弘が瓢箪鯰の臆病者という評価は当たっていません。こんな改革発想ができた侍は、当時は阿部が一人だけです。

「誠之館」という校名は、孔子の儒教の書、『中庸』に出てくる、「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」という言葉から採ったものです。

 誠之館は文京西片の阿部家中屋敷邸内にまず「丸山誠之館」を開校、継いで国もとの福山に「福山誠之館」を開校します。福山誠之館は現在の誠之館高校、丸山誠之館は、現在の文京区立誠之小学校に、その名が引き継がれています。

 そして幕府独裁発想を捨てて、京都の朝廷はじめ、外様大名を含む諸大名に鎖国・開国の意見を募ります。むろん幕府弱腰の非難が戻ることは、百も承知の上でした。

 大船の禁を解いて、オランダから蒸気軍船の購入を決定、そして操船術を学ばせるため、即刻榎本武揚ら、身分は低いが有能な人材を抜擢して、オランダに留学に出します。

 親友であり、有能でもあった薩摩藩主の島津斉彬に、開国やむなしの情勢を説明して、協力を要請します。阿部の動きを見て斉彬は、領地内で大船の建造に取りかかります。

 江戸湾内に埋め立て工事を開始し、大砲を据えて、お台場にします。このお台場は、当初の青写真のすべてが完成したわけではないし、和親条約の締結で、使用されることはなかったわけですから、さして意味がなかったように後世批判されがちですが、実はここに砲を配置することで、江戸湾奥にまで侵入した船は、十字砲火の対象になるのですね。充分に有効な工事でした。

 ペリーたちはさすがに戦(ルビ、いくさ)のプロなので、最初の来航の時は江戸湾奥まで入っていますが、新設されたお台場を見て、二回目にはもう奥までは入っていません。

 それから先にも述べた高島秋帆の罪を許してそばに呼び、上申に熱心に耳を傾けます。そして正弘は、のちに彼の上申の通りに洋式砲術を取り入れて、国防力を向上させます。

 アメリカから帰国していたジョン万次郎に使いを飛ばして土佐から呼び寄せ、本所に江川屋敷を与えて、これも身分制の崩壊につながるという周囲の猛反対を抑えて、幕臣に取り立てます。万次郎は、アメリカの学校で成績優秀であったため、自分はどのようなむずかしい英語も理解できますと訴えたので、条約締結の際には、彼を通訳として使うことを決めていました。

 しかしこれには水戸の老公、徳川斉昭が、その者はアメリカのスパイに相違ないと猛反対したために、果たしませんでした。ために開港交渉は、英語、オランダ語、日本語と何重にも通訳を介する迂遠なかたちになったけれども、万次郎はひっそりと襖の陰にいて、サブ通訳の役割を果たしたといわれています。アメリカ側も、陰に潜んでいるこの英語の達人の存在に、実は気づいていたといいます。

「踏み絵」を廃して信教の自由を打ち出し、「洋学所」を設置、「講武所」、「長崎海軍伝習所」の創設を進めます。洋学所はのちの東大、講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍に発展して、すべて国防の中核となります。洋学所の教授にはジョン万次郎、海軍伝習所長には、禄高の低い勝海舟を抜擢してあたらせました。

 そして高島秋帆の進言通りの洋式砲術に加え、大船の導入による海防の充実をはかり、早急な幕政改革、安政の改革を進めます。


 しかしそうする一方で、最初の会見がいかに友好的であろうとも、アメリカが引き続き友好的、紳士的な態度に終始するとあまい期待をするわけにはいきません。中国に対したイギリスのように、突如態度を変えてアヘンの購入を迫って来るかもしれないし、江戸の一部を香港のように割譲せよとか、国土の何分の一かを植民地化すると、いきなり宣言してこないとも限りません。

 そうなったなら、いかに彼我の武力差が大きくとも、こちらにまだ海軍がなかろうとも、命を捨てて陸で死闘を行うほかないので、戦争の準備も始めます。

 その時の出陣図、これは「御出陣御行列役割写帳」ですね、これに見るような隊列の具体的な配置、各藩への伝達や組織構成を定め、各藩へ守備担当を割り振って、戦争の腹を固めます。江戸詰めの福山藩士はこの時、芝増上寺に陣を張り、ここを守護するとともに、正弘じきじきの采配を聞いて、国防軍の中核を担う計画になっていました。

 しかし予想に反してアメリカは、日本に対しては意外なまでに紳士的であり、クリミア戦争が長引いていたために英・仏・露、欧州列強の来日は遅れ、戦争をする必要は生じませんでした。阿部正弘の対米国防戦争の準備は、さいわい無駄に終わったわけです。

 それでも一八五五年、長い老中職の激務がたたって阿部は体調を崩します。そこで彼は開国派の堀田正睦(ほったまさよし)を老中に起用して、情勢が逐一自分の耳に入るようにしておいて療養生活に入りますが、翌々年の一八五七年の夏、老中職のまま没します。享年は数えでわずかに三十九。そういう経過ですね。


 こうした状況は、現状とも幾分似ています。現在の日本は、北朝鮮のミサイルに狙われています。他の国からも狙われていますが、今撃つ気があるのは朝鮮半島です。

 近隣の某大国は、二〇二〇年に、台湾を吸収する準備を終えるという観測があります。この吸収には、武力を用いることになる可能性もあります。つまり準備を終えるとは、そのための軍事力の増強と整備が終わるという意味です。

 もしも軍事行動が起こされるとすれば、アメリカが中東などに関わっていて動けないタイミングを狙うでしょうし、そうなら状況次第では、尖閣諸島に対しても、同時に軍事行動が仕掛けられる可能性は無視できません。侵攻側の陸軍の規模は、それを充分可能にします。現在の日本も、安閑としてはいられない状況下にあります。

 阿部正弘の有能さを語るエピソートのひとつとして、ペリーとの和親条約の一年後、一八五五年にロシアと結ばれた「日露和親条約」の内容があります。

 いわゆる北方四島、国後、択捉、歯舞、色丹における領土紛争は、松前藩と南下政策のロシアとの間で、江戸時代からあったわけです。これらの島は日本人のものではなく、ロシア系アイヌ人の領地だというのが、当時も今もロシア側の主張です。

 阿部正弘はこの時、ロシアとの交渉団の人選を自分で行っています。この時中心に据えたのが、川路聖摸(ルビ、かわべとしあきら)という人物です。正弘より十歳も年上ですが、正弘が以前から彼の才能を見抜いていて、勘定奉行兼海防掛に任命していました。川路は頭の回転が速く、しかも駄洒落の川路と呼ばれるほどのひょうきんな一面もあって、正弘の右腕として、対ロシアの折衝役として活躍します。

 正弘は北海道、千島列島、樺太を松前藩から幕府の直轄地に移します。当時の幕府内には、樺太など放棄説を言う者があったのですが、正弘は樺太の将来の価値を見据えて、絶対にこれを認めませんでした。そして樺太を二分して、北緯五十度以南は日本領と認めさせるように、川路に命じます。同時に、国後、択捉、歯舞、色丹、四島も日本領として譲るなと命じます。川路はこの薫陶を受けて長崎に飛び、命を賭けてロシアと折衝します。

 折衝時の川路とロシア側の問答が今日に伝わっていますが、樺太に関してロシアは、北緯五十度以南に住む日本人は二〜三十人しかいない。一方ロシアは、以南に炭坑も発見して、すでに作業に入っている、と主張します。すると川路は、人数を言われるのであれば、わが国は即刻ロシア人の数十倍の人数を送り込めるが、それでよいかと切り返します。

 川路はさらに、択捉の北のウルップ島までを日本領とすることを狙いますが、これは果たしませんでした。が彼は、正弘の命じた通りに、日露の国境線を引くことに成功します。

 川路と長崎で相対したロシアのプチャーチンは、ロシア皇帝への上奏報告書の中で、川路と筒井肥前守を絶賛しています。

「全権団筒井肥前守と川路左衛門尉は、その考え方、表現、われわれに対する丁重さと慎重さにおいて、教養あるヨーロッパ中のいかなる社交界に出しても、一流の人物たり得るであろう。

 筒井・川路両全権をはじめ、各奉行や下役たちも、われわれに対してきわめて丁重に振るまい、歓待の実をつくした。われわれは充分に満足する機会を得たし、従来多くの旅行家が記しているように、日本人が極東におけるすべての民族の中で、最も教養の高い民族であることを認めるにやぶさかではない」

 正弘も川路の交渉力を非常に高く買っていて、ペリーとの交渉時にも彼がいてくれたら結果は変わっていたろうか、とのちに回想しています。ロシアに較べて、アメリカにはかなり大きく譲っていて、二国の不公平が言われるかもと心配したからですが、おそらく変わらなかったであろうと、思い直しています。

 日本側のロシアに対する主張は、今も阿部と川路らがこの時に引いた国境線を根拠にしています。戦後の数十年、夥しい数の政治家がこの問題にあたっていますが、何十人という人材が束になっても、阿部のこの成果にわずかでも迫れる者は、未だ一人も出ていません。


阿部正弘の恋

 晩年の阿部正弘というと、団子屋の美しい娘との恋愛というエピソードがあります。これもご紹介しておきます。

 正弘は、ペリー提督の黒船四隻が浦賀に現れる一年前に、正室の謹子を病で亡くしているんです。彼女は蒲柳の質で、体が弱かったんですが、享年は、かぞえでわずかに三十一でした。

 謹子のことを正弘は実際に愛しており、病床にある彼女の手を握って、終日枕もとにすわり続ける日もあったようです。愛妻の死の気落ちを詠った漢詩も残っています。

 その頃母の具美子もまた体が弱っていて、本所石原町にあった下屋敷に独りわび住まいをしていたんです。だから正弘は、うまいものを買って持っては、たびたびこの母に届けていました。

 その下屋敷近くに、長命寺という寺があって、その境内に桜餅を売る店が出ていたんです。桜餅は、桜の葉を塩漬けにして餅を巻き、この長命寺の住職が工夫したといわれています。この長命寺の桜餅が、おいしいと評判になっていたんですね。

 当時の幕臣たちの嫉妬を買いそうな、そして現代の女性たちを立腹させそうなエピソードがここにあるんですが、謹子が死んで、謹子の実家が後添えを勧めるんですね。これが越前藩主、松平慶永の養女で、謐子(しずこ)という娘でした。

 正室がいないと当時は何かと不都合があったらしく、正弘はさして気が進まないままに承知するんです。そして会ってみたら、なかなかの美人だったのですね。それで正弘も気に入ります。

 そこでこの謐子を後添えにもらう報告を母にしようと、駕篭で石原町の下屋敷に向かっていて、そうか、うまいと評判なので、長命寺の桜餅を買っていこうかと思いつくんですね。そこで境内に駕篭を入れさせ、側近に買って来るように命じたら、この時にたまたまおとよが店番をしていたんです。

 駕篭の中から遠目にこの娘を見て、あんまり可愛いので、正弘が見初めるんですね。長命寺は、実際に行ってみると境内が狭いんです。これなら駕籠の中から、おとよの顔もよく見えたろうと思われます。長命寺の桜餅は今も名物で、寺の裏手にお店があります。ともあれ、母に新しくもらう嫁の報告に行く途中で、別の娘を見初めるとはけしからんという話ではありますね。

 それ以降正弘は、母に桜餅を買うために、たびたびこの団子屋に寄るようになるんです。しかし激務多忙で、それから一年ほどは何も行動を起こさずにいたんですが、まもなく御三卿の田安慶頼が、彼女に気があって狙っているという噂が入るんですね。その時の正弘の七言絶句の漢詩が残っています。その中に、

「わが心急なり。春風が玉葩(ぎょくは。玉のような花)を散らすことを恐れん」

 という一節があります。早くしないと、田安にやられる、焦るなぁという意味です。

『群青の時』という小説では、辰の口の屋敷にいる正弘の側室が気を廻して、彼女を上屋敷に入れてやって、正弘の晩年の世話をさせてやったというストーリーになっています。別の説では、母親の具美子が下屋敷に引き入れて親しくなり、息子に紹介したとするものもあります。

 いずれが正解かは解りませんが、事実おとよは正弘の側室に入って、正弘の死を見とるんです。屋敷に入った時はわずかに十七、輿入れの時の謹子もそうでした。二人は顔だちが似ていたという話もあります。いずれにしても正弘は、何人もの美女に囲まれ、女性の点では幸せな生涯を送ったようです。


 正弘の病は進んで、徐々に頬がこけて、やせ細っていきます。外貌が大きく変わり、みなを驚かせたと言います。癌の症状と思われますね。時に激しい痛みもあったはず、腹水や、むくみもあったでしょう。城勤めは苦しかったと思います。

 若い美女を家に入れたということで、やっかみもあり、城内では陰口もたたかれます。ありゃ若い女に生気を抜かれておるぞとか、祟られておるとか、やせ細ってまるで幽霊だ、気色が悪い、などと言い立てる者もあったらしい。

 いずれにしても正弘は、おとよを家に入れてのち半年で、首座を辞して屋敷で療養を始めます。おとよを溺愛するためであったという話もあります。

 しかし彼がしばしば見せる温情ですね、ペリーの船に乗って海外に出ようとした吉田松陰を、世界に関心を向ける態度はあっぱれだと言って許したりといった寛容の心は、こうした女性に対する熱い思いとも、無関係ではなかったでしょう。

 けれども幸福な時は長くは続かず、それからわずかに一年と半で、彼は没します。死ぬ時には謐子の配慮に感謝し、ひとこと礼を言って去ったといわれています。


『阿部正弘の死』

 阿部正弘の死は早すぎます。四十前ですから、これからという年齢です。もしも彼が生き延びていたら、その後の歴史は違っていたでしょうか。

 これは明らかに違っていたと思います。まずはっきりしていることは、薩摩の殿様は島津斉彬で、彼は西国に並ぶものなしと言われた名君でした。阿部は明らかに人の能力を見抜く才があって、それゆえに彼と親友になっていたんです。

 正弘と斉彬は、未曾有の国難のおりの盟友でしたから、正弘が生き延びていたら、斉彬の家臣が江戸城に弓を弾くことは絶対にありません。したがって、薩・長クーデターというかたちの明治維新はありませんでした。薩摩なしでは、長州のクーデターも、かたちが変わらざるを得ない、実行はむずかしいでしょうね。

 その以前に、正弘が生きていれば、彦根藩から井伊直弼という大老が出てくる展開がありません。大老の井伊が、幕府の威信ということで反幕府勢力を次々に逮捕拷問という安政の大獄をやったから、明治維新の大義名分が生じるんです。阿部がいれば、水戸の徳川斉昭を懐柔していますから、斉昭が自藩、水戸の藩士を焚きつけて造反を扇動するということが起こらないので、桜田門外の変はなくなります。

 そうなると薩長クーデターがなくなり、ということは薩長政府がなくなるから、朝鮮征伐から中国大陸侵攻という展開がなくなっていた可能性も生じます。

 阿部の幕府は、述べたように、ペリーのアメリカ軍と大変うまくいっていました。するとのちの日米戦争がなくなった可能性さえあります。太平洋戦争と敗戦にいたる流れは、ポーハタンの船上のパーティに参加せず、アメリカを夷狄として怯えていた薩長の末裔たちによって先導されたと、言えなくもないわけです。

 そうならば、いささかロマンに過ぎるかもしれませんが、以降の日本のあり様は、まったく変わっていたでしょう。もしも日本が連合国側にいたなら、戦力の余裕から、傲慢で性急な殴打横行の日本軍の体質や、特攻隊発想がなくなります。

 正弘によって抜擢された勝海舟も、同じことを言っています。

「もし伊勢殿に可すに数年の齢をもってすれば、薩長は抗敵とはならず、条約調印は勅許され、宮卿親藩の幽閉なく、志士の惨戮(ざんりく)冤罪に罹ることなく、水戸公も漸次自重の方針に傾きて、国備の年に整いしは必然なり」

 もしも阿部正弘にあと数年の命があれば、薩長は幕府の敵となることはなく、条約の調印は天皇の許可のもとに行われ、安政の大獄は存在せず、維新の志士が冤罪にかかることはなく、水戸の斉昭公も次第に自重に傾いて、国防力が年毎に整っていたのは確かだ、ということです。


 阿部正弘は、国防力を最短距離で整えるための布石を、完璧に打っていました。榎本武楊は、正弘の睨んだ通り、大船操船術だけでなく、万国公法を自在に操れる国際的な人材に育って戻ってくるんです。強力な日本海軍が出来上がる素地が、充分に整っていました。

 陸軍も強力になっていて、士族の解体や、続く不平士族の反乱も、あのようなかたちで起こっていたかどうか。徳川の勢力と、国内の既存の士族勢力が維持されていれば、国防軍は数量充分で、おそらく起こっていないであろうと思われます。

 阿部正弘の将来展望は完璧でありましたが、自身の死だけが計算外であったということに思われます。それが、あるいは日本の将来を狂わせて、今日のように国内に大量の米軍基地があり、大量の米兵が駐留しているという状況を作ったかもしれませんね。


正弘が誠之館に託した思い

 藩校「誠之館」に阿部正弘が託した思いについて、最後に述べておきます。創設当時、正弘がこの旧制を排した藩校に託していたことは、一にも二にも、対外国と言うことでした。当時世界は、特殊な事情がある場合を除いて、ほぼすべて白人国家の植民地になっており、艱難辛苦を舐めつつあったわけです。そして白人勢力は、最後の一国として、日本列島に押し寄せはじめていたわけです。したたかな彼らに対抗し、独立を維持するには、身分制が作り出すようななまなかな才では到底成し得ないと考えて、正弘は誠之館の新しい教育制度によって、突出した才を発見しようともくろんだわけです。

 当時の日本侵攻勢力は、アメリカであり、ロシアであり、イギリス、フランスでした。はっきり植民地化の意志を持っていたのは、その中の帝政ロシアです。これらに対抗し、今日まで日本は、かろうじて独立を維持し続けています。正弘がもしここにいたなら、今は間違いなく中国だと彼は言うであろうと思います。

 この問題は、込み入った巨大なテーマなので、また機会を改めますが、黒船以降、今日までの歴史経緯を俯瞰する際、多くのことに気づかされます。当初黒船は、日本国とその民に対して、ある種の憧憬と敬意をもって接してきました。これは当時の彼らの最終目標が日本でなく、中国であったということもあるから、単純に敬意とか、憧れゆえとばかりは受け取れません。

 しかしこの時に、あるいは以降も、日本人は、彼らの憧憬にうまく応え続けたか否か、このことを今日、われわれは考える必要があるかもしれません。

 時代がくだって移民の世紀に入り、日本人はハワイやブラジル、そしてアメリカ、特に西部に、大量に労働力として入るようになります。そして決して犯罪を為さず、アメリカ人が放棄しがちの荒れ地を引き受けて丹念に開墾し、勤勉に働きます。しかし日本人は、何故か次第にアメリカ人に嫌われはじめます。そして排日移民法が強引に制定され、日本人は土地も家も買えなくなり、差別を受けるようになります。

 理由として、いつまでもアメリカ社会に溶け込もうとせず、英語を充分学ばず、天皇崇拝を捨てず、日本人コミュニティを作ってその中に閉じこもってしまう内向性が指摘されました。日本人と直接接するアメリカ人が、アングロサクソン系でなく、かつて戦勝したロシア系やポーランド系、チェコ系の移民たちであったことも、災いしました。日系移民の多くが下層階級の出身であり、白人流の行動で彼らと互していく魅力に乏しかったとする観察もあります。

 この時期、希代の経済人渋沢栄一は、自分は将来の展望を誤った。今日アメリカが、このような挙に出るとはまったく予想しなかった。自分はペリー・アメリカに好感を抱いていた。これなら自分は、若き日の尊王攘夷の情熱を今日まで維持していてもよかった、と嘆きます。

 さらに加えて中国大陸の利権、南北シナ海における覇権等で、日本軍はアメリカ軍と正面衝突するようになり、ついに絶望的な太平洋戦争に突入します。

 かくして日本は敗北し、アメリカの属国化し、戦争指導者は東京裁判で裁かれて、七人が処刑されました。東京に乗り込んできたGHQは、ネイティヴ・インディアンに対したように、向こう百年間、徹底した洗脳教育を日本人に施す計画でいました。

 ところが間もなく朝鮮戦争が起こり、アメリカは、共産主義、コミンテルンの世界制覇策謀のブロックが、自らの使命と知るようになります。敵はこれまで、自分たちのすぐそばに、仲間の顔をしてひそんでいたわけです。そしてこの敵とこれまで闘ってきたのが、実は旧日本軍のA級戦犯、東条英機たちであったことに気がついていきます。

 そこでアメリカ占領軍は方針を転換し、占領政策を予定より早く切り上げ、サンフランシスコ講和条約を結んで、日本をすみやかに許す方向に動きます。アメリカ主導のこの会議の精神をロシア、中共は決して認めず、署名はしませんでした。革命を起こしにくい最大の要因である天皇制度を問題視し、彼らは天皇処刑の方針も変えませんでした。

 現在アメリカは、日本人ワーカーのサポート能力の高さから、在日の米軍基地を最も信頼し、ここを拠点に南アフリカまで、広域の活動を展開しています。南沙や台湾、沖縄、南西諸島を併合して自由主義圏の包囲網に突破口を開け、外洋に進出し、ハワイで太平洋を二分して西を赤い領海とし、最終的にアメリカと雌雄を決すべく軍拡計画を進行中の中国とも、アメリカは決戦の覚悟を固めつつあります。

 近現代史をこう俯瞰すれば、かの太平洋戦争は、アメリカが今現在抱く目的意識と、相反していることに気づかされます。つまり日米の目指すところは似ていました。一九四〇年代、日米は不幸なすれ違いをしたかもしれません。その理由は、いったい何であったでしょうか。

 ポーハタン船上の、和気あいあいの日米親睦パーティ、中国利権欲動の起こす摩擦、西太平洋覇権の衝突、これら諸問題へのほどよい匙加減模索に加え、アメリカ人が期待するだけの騎士的魅力を開国後の日本人が発揮し得ていたなら、育ったであろう日米間の友情がうまく作用して、今日の状況はかなり違っていたと思われます。その後の日本人は、こうしたものの構築に、大きく失敗を続けてきました。

 むろん殴打暴行の愚劣な旧軍体質こそが、最も魅力のない日本人性であることは、真っ先に自覚の要があります。この種の暴行は、兵の愛国心への軽蔑であり、彼らの闘争心を無に帰させる愚行です。しかしこれも、あるいは武士階層を芯にして近代国防戦力に移行、構築していたなら、職業軍人たる彼らの持つ先天的闘争意欲によって、あるいは体質が変わっていたかもしれません。

 阿部正弘が考えていた将来の国防の姿は、実のところそういうあたりであったように見受けられます。二十一世紀の国防の時代、われわれ新世紀の日本人は、そして誠之館の卒業生は、近現代史を正しく理解了解し、その上でこういうあたりのことを、よくよく考えてみる必要があります。



   



   



   



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